かな》つたのであらう。正弘が政治に於て既に已むことを得ずして鎖国説を棄てつつも、医方に於て猶榛軒に聴いたのは、其思想の根柢が保守にあつたからであらう。

     その三百二

 阿部正弘が丁巳の歳に病んだ時、柏軒は死を決して単独にこれが治療に任じた。既にして正弘は逝《ゆ》いた。そして柏軒は何の咎《とがめ》をも受くることなく、只奥医師より表医師に貶《へん》せられたのみであつた。此|貶黜《へんちつ》は阿部家の医官が其主の病を治して、主の館《くわん》を捐《す》つるに会ふごとに、例として行はれたものださうである。果して然らば柏軒は真に何の咎をも受けなかつたのである。
 正弘の病は当時の社会にあつては一大事件であつた。是は正弘が外交の難局に当つて、天下の目を属《ぞく》する所となつてゐたからである。水戸老公|斉昭《なりあき》は側用人《そばようにん》安島《あじま》弥次郎に与ふる書に、「何を申も夷狄は迫り居り候へば、勢州は大切の人」と云ひ、福井侯|慶永《よしなが》も亦、「唯今彼人世を早ふせば、天下の勢も如何に変り行ならむか、公私につき憂はしき事の限にぞある」と云つたことが、用人中根|靱負《ゆきえ》の記に見えてゐる。
 それゆゑ世上に正弘の病に関して、種々の流言蜚語が行はれたのは怪むに足らない。諸書の伝ふる所は渡辺氏の「阿部正弘事蹟」に列記してあるが、要は正弘が政局に艱《なや》み、酒色を縦《ほしい》ままにして自ら遣《や》つたと云ふにある。わたくしは此に一例として徳川斉昭の言《こと》を引く。「中納言咄にては、御城坊主抔は十五の新妾出来候故云云、酒も登城前より二升位づゝ用候よし云々、(中略、)沙汰には妾も数人有之抔と承り候、(中略、)全右等は人の悪口と存候へ共、衰へ候儀は無相違相聞え申候。」是は上《かみ》に引いた安島に与ふる書に見えてゐる。中納言は当主|慶篤《よしあつ》である。
 しかし正弘が酒色を縦まゝにしたと云ふは、斉昭の云つた如く「人の悪口」であつた。渋江保さんの話に、其父抽斎は阿部侯惑溺の説は訛伝《くわでん》だと云つたさうである。保さんは母に聞いたのである。渡辺氏の如きは反証を挙げて辯駁してゐる。
 わたくしは既に云つた如く、正弘の病を癌であつたと看てゐる。癌はエクスセスに因するものではない。
 当時の流言は啻《たゞ》に正弘の病を云云《うんぬん》したのみならず、又其死を云云した
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