なくてはならない。若し「時をまたず、人工にて無理に発動」せしむるときは、毒は「旧に依て蟄伏」する。種痘は「一時苟且」の術に過ぎぬと云ふのであつた。
 榛軒痘瘡の説は、池田錦橋の「天行之※[#「さんずい+診のつくり」、8巻−195−下−14]気、与蘊蔵之遺毒、相触激而発」と云ふに近似してゐる。そしてその胎毒遺毒を視ることは重く、時気|※[#「さんずい+診のつくり」、8巻−195−下−16]気《てんき》を視ることは軽かつた。痘瘡は主として外《ほか》より入るものでなく、主として内より発するものとして視られた。それゆゑに種痘の天然痘より微なるを見て、余毒の遺残せむことを惧《おそ》れた。

 此の如き見解は固より近時闡明せられた染疫《せんえき》免疫の事実と相容れない。しかし榛軒は種痘を悪むべしとなすよりは、寧種痘の新奇を畏《おそ》るべしとなしたのである。そして上《かみ》に引いた伊勢安斎の所見と同じく、西洋人の此新奇を以て衒鬻《げんいく》し、邦人を欺瞞せむことを慮《おもんぱか》つたのである。
 榛軒は云つた。「人間界上下賢愚一同に、子孫を愛惜せざるはなく、痘疹を憂懼せざるはなし。其の愛惜憂懼の心を、後患はしらず、一時苟且の種痘にて、掃ふがごとく忘れたるがごとくせしめば、愈(中略)蛮夷の法を慕ふに至らむ。(中略)禍乱は凡愚の下民より生ずる理にて、既に清朝下民の阿片を嗜み、一統心酔仕候より、道光の変乱を招き生じ申候。(中略。)下民の異教を信じ乱を生じ候事は、和漢の歴史に昭々明々と之あり。」「蛮夷は僻遠の地に在て(中略)産物具全せず(中略)、天下融通交易と号し、外国を伺ふなど、飽かざれば止まずとも申候。」「往古耶蘇の天主教を以て愚民を誘引仕候首初は、先づ婦人小児よりなづけ、世に希なる沙糖を嘗させ、目に見なれざる彩帛を与え、婦人小児の歓心を得て、扨其夫其親の意を迎へ(中略)、千百人の心をして煽動変乱せしむ。是蛮夷の他の邦を伺ひ奪ふ第一義の計策と仕候由(中略)、大害の成るに至りては、何如ともせむ方なき理に御座候。」「二百年来諸蛮を禁止したまひし神智、今日に至り実に申もおろかなる事にて、敬服仕候事に奉存候。」榛軒はその鎖国攘夷論者たる立脚地よりして、これを小にしては種痘を排し、これを大にして洋医方を排した。
 若し阿部正弘が榛軒に聴いたとすると、それは榛軒の説が保守主義者たる正弘の旨に称《
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