かねよし》の長男である。榛軒門人録には「渋江道陸」として載せてある。塾生であつた。性謹厚にして、人の嬉笑するを見ては顰蹙して避けた。同窓の須川隆白は、同じ弘前藩の子弟であつたので、常に恒善を推重し、寝具の揚卸、室内の掃除は自らこれに任じ、恒善に手を下させなかつた。此人の事は抽斎伝に詳である。
須川隆白は弘前の人で、伊沢氏塾生の一人であつた。美丈夫であつたが、首を掉《ふ》る癖があつた。榛軒歿後には渋江抽斎に従学した。
隆白は後津軽家の表医師に任ぜられ、金十八両六人扶持を受けた。禄米に換算すれば約九十俵である。渋江恒善は同家に仕へ、三人扶持を受けてゐるうち、不幸にして早世したのである。
その二百七十六
渡辺|昌盈《しやうえい》も亦、渋江恒善、須川隆白と同じく、弘前藩の子弟で、伊沢氏の塾に寓してゐた。榛軒門人録には此人の名が「昌栄」に作つてある。わたくしは今同藩出身の渋江保さんの書する所に従ふ。
昌盈は其本姓を知らない。渡辺氏に養はるるとき、川村屋金次郎といふものが仮親となつた。是は津軽家用達たる舂屋《つきや》で、所謂|川金《かはきん》である。
榛軒は頗る昌盈を優待した。そしてこれをして久しく塾頭たらしめた。門人録には福岡の森隆仙の下《もと》に塾頭と註してある。渡辺と森との塾頭は孰《いづれ》か先、孰か後なるを知らない。
或時小島宝素と辻元|※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵《すうあん》とが榛軒に告げて云つた。頃日《このごろ》坊間に酌源堂の印のある書籍を見ることがある。文庫の出納を厳にするが好いと云つた。榛軒は蔵書を検して数部の喪失を知つた。そしてその何人の所為《しよゐ》なるを探るに及んで、これを沽《う》つたものの昌盈なるを知つた。
昌盈は懼れて救を川金に請うた。川金は書籍の猶書估の手にあるものを買ひ戻して伊沢氏に還した。
昌盈は後津軽家の表医師となつて禄三十人扶持を食《は》んだ。安政乙卯の地震の日に、津軽家の本所上屋敷の当直は須川隆白に割り当てられてゐた。偶《たま/\》須川は事に阻げられて、昌盈をして己に代らしめた。直舎《ちよくしや》潰《つひ》えて、昌盈はこれに死した。
飯田安石も亦門人録に見えてゐる。わたくしは前《さき》に榛軒が病《やまひ》革《すみやか》であつた時、物を安石に貽《おく》つたことを記した。そして当時未だ此人の身上を
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