だ。午は飯を饗し、夕は酒※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]《しゆかう》を饗した。少壮者は往々夜宴の開かるるを待ち兼ねて、未の下刻頃より「もう日が暮れた」と叫びつつ、板戸を鎖し蝋燭を燃やし、酒饌《しゆぜん》の出づるを促した。
曾能子刀自は当時の献立を記憶してゐる。例之《たとへ》ば午、吸物摘入、小蕪菁《こかぶ》、椎茸、平昆布、大口魚《たら》、鱠《なます》、千六本貝の柱、猪口はり/\、焼物生鮭粕漬、夕、吸物牡蠣海苔、口取蒲鉾卵|橘飩《きんとん》青海苔を塗《まぶ》したる牛蒡鯛の小串、刺身|比目魚《ひらめ》黒鰻《まぐろ》、大平《おほひら》鯛麪《たひめん》、旨煮《うまに》烏賊牛蒡|土当帰《うど》、概《おほむね》此類であつた。午は少壮者が健啖を競ふので、特に多く準備した。
宴を撤するに先だつて総踊と云ふことがある。客が一斉に起舞するのである。床板は屡踏み破られた。
三月上巳の節句は天保丙申の条に記した。
五月十三日には関帝を祭つた。関帝は蜀の関羽で、明の万暦中に「協天護国忠義大帝」の号を贈られたのださうである。榛軒の書斎には三|位《ゐ》の神像が安置してあつた。関羽、菅原道真、加藤清正である。
像には皆来歴がある。関帝の原像は本所五百羅漢寺の門にあつた。榛軒は彫工運長と云ふものに命じて※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1−84−88]刻せしめた。按ずるに文淵堂の花天月地《くわてんげつち》に、榛軒が七代目市川団十郎所蔵の関帝像を還した時の団十郎の文がある。或は榛軒はこれを借りて家蔵の像に補刀を加へしめたのではなからうか。文はかうである。「拝見仕候。如仰梅天不正之儀に御坐候。陳者関帝御返却被下、慥に謹領仕候。遠方御人遣奉恐入候。只今講釈中貴報耳早々申上候。後刻拝趨万々可申上候。頓首。即日。寿海。榛軒先生奉復。二陳。賤姪《せんてつ》へよろしき御品御恵投、大に難有御厚礼申上候。喜気満面御遠察可被下候。」
関帝は厨子の裏《うち》に安置せられた。此厨子にも亦来歴があつて、像に比すれば更に奇である。
その二百六十七
わたくしは榛軒の毎歳五月十三日に祭つた関帝像の来歴を語つて、未だ其厨子の縁起に及ばなかつた。厨子には四具足が添へてある。香炉、花瓶、燭台、酒爵《しゆしやく》である。厨子と云ひ、什器と云ひ、皆川村伝右衛門と云ふ人の贈る所である。伝右衛門は今の
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