富樫ではなからうか。若し然らば寿海の名残狂言の勧進帳は、壬子の年の春狂言で、其初日は正月十三日であつただらう。又寿海は辛亥の年に病んで榛軒の療治を受けたものとおもはれる。金を寿海の家に齎した「坂の若先生」とは誰か。若し柏軒ならば、何故に「坂」と云ふか。或は「若先生」は清川安策で、父玄道あるが故に云つたものか。
以上記し畢《をは》つた後、近世日本演劇史と歌舞伎新報とを小島政二郎さんに借りて看た。七世団十郎は壬子の九月と十一月とに勧進帳を演じた。新報に拠るに、一世一代は前者であつた。然れば団十郎父子の正月に演じた狂言は別である。四世薪水の大功記の事は演劇史に見えない。是等は根本資料に泝《さかのぼ》つて検せなくてはならない。
尋で小島氏は豊芥子の歌舞伎年代記続編嘉永五年の下《もと》に、四世薪水の大功記が「十一月七日より顔見世」になつたと云つてあることを報じた。しかし蘭丸は猿蔵でなくて市蔵になつてゐたさうである。是に於て壬子九月に榛軒が勧進帳を観、十月若くは十一月初に塩田、矢島が寿海の家を訪うたことが明なるに至つた。
その二百六十六
わたくしは此年嘉永壬子十一月十六日に榛軒の歿したことを叙し、次に編日の記を続いで歳暮に至り、最後に壬子年間の事にして月日を詳にせざる塩田氏の観劇談に及んだ。然るにわたくしの獲た所の資料中には、榛軒に関する事蹟にして年月日の下《もと》に繋くべからざるもの、若くは年月日不詳なるものが数多《すうた》有る。そして其大半は曾能子刀自の記憶する所である。榛軒は蘭軒の継嗣であるのに、同藩の人々と雖も、その平生を悉《つく》してゐるものが無い。是には後に記すべき弟柏軒に比するに、其生涯の波瀾に乏しかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。又蘭軒は著述を喜ばなかつたとは云ひながら、猶若干の文字を後に貽《のこ》したのに、榛軒に至つては殆ど全く筆墨を弄せなかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。榛軒の人となりの知り難いこと既に此の如くである。わたくしの獲た所の零砕の資料も、これを思へば軽々しく棄てられぬのである。
しかし此資料はわたくしをして頗る整理に艱《なや》ましめる。わたくしは已むことを得ずして一種の序次なき序次を立てた。そして先づ年中行事より筆を著ける。
榛軒の世には新年の発会が盛であつた。来り会するものは約百人であつた。時刻は午前より夜に及ん
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