年森枳園が屠蘇の方《はう》を印刷して知友に頒つた。亦十二月中の事である。枳園の考証する所に従へば、屠蘇は本唐代の俗間方《ぞくかんはう》である。其配合の最古なるものは宋板外台秘要に出でてゐる。枳園は紀州藩の医官竹田某の蔵する所の宋板外台中屠蘇の方を載する一|頁《けつ》を影刻したのである。新年に屠蘇酒を飲むことは、今猶広く世間に行はれてゐるから、此に古方の薬品、分量、製法を略抄して置く。「歳旦屠蘇酒方。大黄十五銖。白朮十銖。桔梗十五銖、蜀椒十五銖汗。烏頭三銖炮。※[#「くさかんむり/拔」、第4水準2−86−30]※[#「くさかんむり/契」、第4水準2−86−45]六銖。桂心十五銖。右七味※[#「口+父」、第4水準2−3−71]咀。絳嚢盛。以十二月晦日。日中懸沈井中。令至※[#「泥/土」、第3水準1−15−53]。正月朔日平暁。出薬置酒中。」
此年には今一つの記すべき事がある。それは塩田|真《しん》さんの語る所で、榛軒等が七代目団十郎の勧進帳を観たと云ふ一事である。塩田氏の語るを聞くに、此勧進帳は七代目団十郎の所謂一世一代名残狂言であつたらしい。これを此年に繋《か》くる所以である。
塩田氏はかう云つた。「わたくしは伊沢榛軒、同柏軒、渋江抽斎、森枳園、小島成斎、石塚|豊芥子《ほうかいし》の人々と寿海老人の勧進帳を観たことを記憶してゐる。此人々は所謂|眼鏡連《めがねれん》で、毎《つね》に土間の三四を打ち抜いて見物した。是は本近眼から起つた事である。榛軒柏軒の兄弟は父蘭軒の如く近眼であつた。抽斎は伊沢兄弟程甚しくはなかつたが、是も亦近眼であつた。此日には抽斎の倅優善、清川安策、わたくしなどの青年も仲間入をして往つた。」
「勧進帳は中幕であつた。そしてわたくし共の最も看んと欲したのも亦此中幕であつた。幕の開く前に、寿海老人の口上があつた。例の如くまさかりいてふに柿色の上下《かみしも》で出て、一通口上を述べ、さて仮髪《かづら》を脱いで坊主頭になつて、此度此通頭を円めましたから、此頭に兜巾《ときん》を戴いて辨慶を勤めて御覧に入れますと云つた。」
「さていよ/\勧進帳の幕が開いた。三升の富樫、猿蔵《さるざう》の義経で、寿海が辨慶に扮したのである。猿蔵と云つたのは三升の弟で、後の九代目団十郎の兄である。」
「眼鏡連はいづれも見巧者《みがうしや》の事だから、熱心に看てゐた。わたくしは偶
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