《たま/\》彼木場の隠居となつた四代目団十郎の勧進帳の正本《しやうほん》を持つてゐたので、それを持つて往つてゐた。そこで土間で其本を攤《ひら》いて、舞台と見較べてゐた。」
「幕を引くと直に、眼鏡連の土間へ、寿海老人の使が来た。其口上は、只今舞台から拝見いたしましたが、大そう古い本をお持になつて入らつしやるやうでございます。暫時あの本を借して戴くことは出来ますまいかと云ふことであつた。わたくしは喜んで借して遣つた。」
「芝居がはねて、一同茶屋の二階へ帰つてゐると、そこへ又寿海の使が来て本を還した。口上は、結構な御本をお貸下さつて難有うございます、お蔭を以ちまして、藝の上に種々心附きました事がございます、自身参上いたしてお返申すべきでございますが、打出し早々多用でございますので、使を以てお返申しますと云ふことであつた。そして使は大きい菓子折を出した。」
「わたくしも少し驚いたが、先輩の人々も顔を見合せて、何事か思案せられるらしかつた。さて榛軒先生がわたくしに、塩田、此返事はどうすると問はれた。」

     その二百六十四

 わたくしは此に塩田氏の観劇談を書き続ぐ。それはわたくしの此年嘉永壬子の事だと以為《おも》ふ談《はなし》である。塩田氏は既に七代目団十郎の寿海老人が己に四代目団十郎の演じた勧進帳の正本を返す時、菓子折を添へて茶屋の二階に送り、同行の師榛軒がこれに報復する所以を問うたことを語つて、さてかう云つた。
「其時わたくしは別にどうしようと云ふ定見もなかつたので、榛軒先生に、さやうでございます、どういたしたものでございませうかと反問した。先生は云はれた。どうだ、其本を寿海に遣らんかと云はれた。わたくしはすぐに承諾した。そこで一行の先輩の間に、これを贈るにどう云ふ形式を以てするが好いかと云ふ評議があつて、結局折り返して使に本を持たせて還すのは面白くない、幸《さいはひ》同行清川安策の父玄道は寿海を療治してゐるから、これに託して寿海の宅へ送つて遣るが好いと云ふことになつた。そこで寿海の使をば、菓子折の礼を言つて帰した。」
「わたくしは其夜一行と別れる時、正本を安策に託した。数日の後、安策はわたくしに寿海の玄道に謂《い》つた詞《ことば》を伝へた。御本は有難く頂戴いたします。お若い方がわたくしの藝を古い本に引き較べて看て下さつた御心入に、わたくしは深く感激いたしました。
前へ 次へ
全567ページ中405ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング