一歳を以て丸山の家に歿した。前年庚戌十二月の寿筵は此|媼《おうな》をしていたく疲れしめた。正宗院は此より垂れ籠めてのみ日を送つてゐたが、遂に寿筵後満一年にして歿したのである。正宗院は遺言に依つて、黒田家の菩提所広尾祥雲寺境内霊泉寺の塋域に葬られた。昨年黒田伯爵家の家乗編纂に従事してゐる中島利一郎さんは、わたくしのために正宗院の墓に詣でて、墓石の刻文を写して贈つた。正面中央には「正宗院湛然妙総禅定尼、」右側面には「瑤津院殿侍女、俗名世代、福山伊沢長安信階女、嘉永四年辛亥十二月十三日死、」左側面には「福山伊沢長安信厚、筑前伊沢道盛信全」と刻してある。此文中道盛信全は蘭軒の生父|信階《のぶしな》の養父信政より、信栄、一時|中継《なかつぎ》たりし信階、信美《しんび》[#ルビの「しんび」は底本では「しんぴ」]を経て信全に至る、伊沢宗家の当主で、辛亥には六十九歳であつた。
正宗院の歿した時、石川貞白の手向けた歌がある。「正宗院のみまかり給ひけるとき禅の心を。わきがたきをしへの外の道なれどけふぞまことに君はゆくらむ。元亮。」
此年榛軒四十八、妻志保五十二、女柏十七、全安の女梅二つ、柏軒並妻俊四十二、女洲十一、国八つ、男鉄三郎二つ、蘭軒の女長三十八、柏軒の妾春二十七であつた。
嘉永五年は蘭軒歿後第二十三年で、其嗣子榛軒の応《まさ》に世を去るべき年である。詩存に元旦の絶句がある。「嘉永五壬子元旦。喜鶴声々対旭飛。陶然酔美弄晴暉。頼依信友悌弟力。不待来年知了非。」此日榛軒は又門人黒川|雲岱《うんたい》に次韻した。「嘉永五壬子元旦、和黒川生韻。三百六十第一辰。風声日影共新新。節遅今日尚冬季。人意酔中既識春。」門人録を検するに、黒川は「棚倉」と註してある。わたくしは榛軒詩存の或は永遠に印刷せられざるべきを思ふが故に、作者の世を去る年の詩は悉く存録することとした。上《かみ》の二首の如きも、其巧拙を問ふことなく、遺蹟に乏しい榛軒の所作として、わたくしはこれを尊重するのである。
その二百六十
此年嘉永壬子の冬は伊沢氏に於て事多き季節であつた。初に中橋又分家の慶事があつた。柏軒は十月七日に躋寿館の講師を命ぜられたのである。
同月下旬に榛軒が病に罹つた。或は是より先に病を発して、此|旬《じゆん》に入つて増悪したのかも知れない。徳《めぐむ》さんの蔵する所の病牀の日記は、「十月廿
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