一日、熱、嘔、脈数、椿庭診、柏軒診」を以て筆を起してある。椿庭《ちんてい》は山田|昌栄業広《しやうえいげふくわう》である。弟柏軒も亦中橋から来り診した。
「廿二日。乾嘔甚。夜信重診。」弟が夜に入つて来た。
「廿三日。薬下。嘔少止。」
「廿四日。嘔少止。壮熱。午後※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭診。晩清吉老診。」多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》が来診した。「清吉老」は未だ考へない。
「廿五日。壮熱如前。※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵診。晩汗微出。」辻元※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵《つじもとすうあん》が来診した。此年の武鑑に「辻元※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵、奥御医師、二百俵高、御役料三十人扶持、下谷長者町」と記してある。
「廿六日。嘔止。熱少衰。夜与立夫議転方。」転方《てんはう》は榛軒が自らこれを森枳園に諮《はか》つたのであらう。
「廿七日。招請椿庭議方。」薬方は原本に註してあるが、今総て省略する。
「廿八日。清吉老診。」
「廿九日。煩熱。心下鞭満甚。」
「十一月三日。良安と信重に刀を贈る。信重のものは後鉄三郎に与へしむ。」良安は榛軒が女柏に配せむとしてゐる青年田中|鏐造《りうざう》である。田中氏は当時松川町に住んでゐた。良安は六歳にして父を失つた孤《みなしご》であつたと云ふから、父|淳昌《じゆんしやう》は天保十年に歿したであらう。榛軒詩存に「嘉永五壬子冬月示良安」と云ふ詩がある。「医家稽古在求真。千古而来苦乏人。万巻読書看破去。応知四診妙微神。」或は此日の作ではなからうか。此年十月は小であつたから、二十九日の後記事の無い日は、十一月|朔《さく》と二日とである。
「四日。御食進。夜中も一度御食事有之。此夜養子婚儀。」合※[#「丞/巳」、8巻−121−上−6]の日は榛軒の心を安んぜむがために急にせられたのであらう。此日に良安は十九歳にして伊沢良安となつた。即ち後の棠軒である。媒《なかうど》は梧陰清川安策であつた。「棠軒公私略」には「嘉永五年壬子十一月四日、養家に引移、整婚儀、名改良安、時府君在蓐」と記してある。是に由つて観れば、良安は榛軒の命じた名である。
「五日。楽真院来診。養子来
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