良子刀自所蔵の掛幅《くわいふく》に於てこれを読むことを得た。「笑迎四十六年春。椒酒三杯気愈伸。弟有悌兮児有孝。奉斯懶病不材人。己酉元日口占。源信厚。」
 四月は丸山の榛軒が家にも、中橋の柏軒が家にも事のあつた月である。
 榛軒は十七日に女《ぢよ》柏《かえ》のために婿を迎へた。婿は池田京水の七男全安である。文政八年生の全安は二十五歳になつてゐた。渋江保さんが此時父抽斎の榛軒に物を贈つた書の下書を蔵してゐる。「一筆啓上仕候。今般全安様御事、伊沢家へ御養子御熟談相整重畳愛度奉存候。右御祝儀申納度、真綿一台進上仕候。聊表志之印迄に御座候。御祝受被下候ば、本懐之至奉存候。恐惶謹言。」
 柏軒の家では九日に妾《せふ》春が次男鉄三郎を生んだ。後|徳安《とくあん》と改称し、立嫡《りつてき》せられて父の後を襲ぎ、磐安《ばんあん》と云ひ、維新の時に及んで磐《いはほ》と称した。
 穉《をさな》い鉄三郎は春を「春や」と呼び、春も亦鉄三郎を「若様」と呼んだが、維新後の磐は春を嫡母《てきぼ》として公に届け、これに孝養を尽した。

     その二百五十七

 榛軒詩存中に尚此年己酉四月の作と認べきものがある。それは「嘉永二己酉偶成、次高束子韻」の七絶三首である。わたくしは此にその四月の作たるを徴すべきもの一を節録する。「点滴声中送尽春。麦秋寒犯病酲身。矮屏孤枕昏昏臥。羨望多餐健歩人。」既に元日の詩に「懶病」と云ひ、今又此詩がある。榛軒は此頃心身の違和を覚えてゐたとおもはれる。
 五月には榛軒の女婿全安が離縁になつた。そして柏は不幸にして妊娠してゐた。全安の伊沢氏を去つたのは、医術分科の上に於て、養父榛軒と志す所を異にしたのだと伝へられてゐる。全安は此より自立して池田氏の「又分家」を成した。即ち宗家霧渓瑞仙|晋《しん》、分家天渓瑞長、又分家全安である。
 小島氏では此年四月十五日に、春庵宝素の子|春沂《しゆんき》抱沖が躋寿館《せいじゆくわん》の寄宿寮頭取になつた。尋で閏《じゆん》四月二十九日に宝素が歿し、七月三日に抱沖が家督相続をし、十月二十八日に奥医師になつた。
 此年榛軒四十六、妻志保五十、女柏十五、柏軒並妻俊四十、女洲九つ、国六つ、男鉄三郎一つ、蘭軒の女長三十六、蘭軒の姉正宗院七十九であつた。柏軒の妾春は二十五であつた。
 嘉永三年は蘭軒歿後第二十一年である。伊沢家には三事の記すべきものが
前へ 次へ
全567ページ中394ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング