山中に宿したらしい趣がある。
 柏軒身上には此年種々の事があつたらしい。先づ事の重大にして蹟《あと》の明確なるものより言はむに、柏軒は十月十六日に「医学館医書彫刻取扱手伝」を命ぜられた。次にわたくしは側室佐藤氏春の柏軒に仕へたのが此年よりせられたであらうと推測する。次年己酉の四月には春が嗣子|磐《いはほ》を生んでゐるからである。

     その二百五十六

 わたくしは柏軒が妾《せふ》佐藤氏春を納れたのが、此年戊申の事であらうと言つた。正妻狩谷氏俊は丙申に来り嫁してより、此に至るまで十三年を経てゐて、其間に長男棠助、長女洲、次女国、三女北の一子三女を生んだ。此四人の中能く長育したものは、只国一人のみなるが故に、余の三人の生歿は家乗に詳密なる記載を闕いてゐる。
 柏軒が春を納れたのは、俊の請《こひ》に従つたのだと伝へられてゐる。推するに女丈夫にして妬忌《とき》の念のなかつた俊は、四人の子を生んだ後、身の漸く疲※[#「卒+頁」、第4水準2−92−29]《ひすゐ》するを憂へて此請をなしたのであらう。
 春は明治六年に其子|磐《いはほ》の公《おほやけ》に呈した書類に、「文政八年六月十九日生、東京府平民狩谷三右衛門叔母」と記してある。当時の三右衛門は矩之《くし》であるが、其親族関係の詳《つまびらか》なるを知らない。始て柏軒に事《つか》へた時の春の歯《よはひ》は二十四歳である。
 此年伊沢氏の親交ある人々の中、寿阿弥が死に、森枳園が阿部家に帰参することを許された。
 寿阿弥の入寂は八月二十九日であつた。其詳なることは別に著す所の「寿阿弥の手紙」に譲つて贅せない。わたくしは此に曾能子刀自の記憶一条を補記して置く。「寿阿弥さんは背の高い大坊主でございました。顔立は立派で、鼻が大そう高うございました。鼠木綿の著物を著て、お天気の日も雨の降る日も、足駄を穿いて歩きました。浅草で亡くなる前に、わたくしも病気見舞に連れて行かれました。」
 森枳園の阿部家に帰参したのは五月である。此帰参が主として伊沢氏の助を藉りて成就し、又渋江抽斎等も力を其間に尽したことは、既に抽斎伝に記した如くである。
 此年榛軒四十五、妻志保四十九、女柏十四、柏軒と妻俊とは三十九、女洲八つ、国五つ、蘭軒の女長三十五、蘭軒の姉正宗院七十八であつた。
 嘉永二年には榛軒に元旦の詩があるが、詩存中に載せられない。わたくしは
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