の記憶する一話とを此に併せ録する。詩に云く。「邇来量減病酲頻。孤枕小屏日相親。嚢物常無半文儲。盆梅頼報一分春。家中長短宜封口。世上嘲戯足省身。遠大思懐灰燼了。遂為売薬白頭人。」
次に刀自の語る所はかうである。刀自が十三歳の時の事であつた。父榛軒は数日来感冒のために引き籠つてゐて、大晦《おほつごもり》を寝て暮した。そこへ石川貞白が訪ねて来たが、其|云為《うんゐ》には周章の状《さま》が著かつた。そして榛軒に窮を救はむことを請うた。榛軒は輒《すなは》ち応へずして、貞白をして一組の歌がるたを書せしめた。貞白は已むことを得ずして筆を把つたが、此時|上下《かみしも》の句二百枚を書くのは、言ふべからざる苦痛であつた。しかし書き畢《をは》つた比は、貞白が稍落著いた。榛軒は方纔篋《はうざんけふ》を探つて、金三十両を出してわたした。貞白は驚喜してこれを懐にして去つたと云ふのである。
推するに榛軒は貞白の神《しん》定まるを候《ま》つて金を授けたのであらう。自ら「嚢物常無半文儲」を歎じつゝも、友を救ふがためには、三十金を投じて惜む色がなかつた。此三十金は必ずや事ある日のために蔵してゐて、敢て自家のために徒費しなかつたものであらう。榛軒の生涯は順境を以て終始したので、その人と為《なり》を知るべき事実が少い。わたくしが刀自の此一話に重きを置く所以である。
此年猶榛軒詩存中に「賀関氏子」の七絶がある。関某の誰なるかは未詳であるが、榛軒は其子の「廟堂器」たらむことを期してゐる。
北条霞亭の養嗣子|進之《しんし》が始て仕籍に列し、舎を福山に賜つたのも亦此年である。会々《たま/\》進之の妻山路氏|由嘉《ゆか》が病んで歿した。跡には十歳の子|念祖《ねんそ》が遺つた。
此年榛軒四十四、妻志保四十八、女柏十三、柏軒と妻俊とは三十八、女洲七つ、国四つであつた。蘭軒の女長は三十四、蘭軒の姉正宗院は七十七であつた。
嘉永元年には榛軒詩存に、「弘化五戊申初春偶成」の七絶がある。「去歳漫蒙債鬼窘。嚢中払尽半文無。先生私有遊春料。柑子一双酒一壺。」丁未杪冬の頷聯《がんれん》と併せ読んで伊沢氏の清貧を想ふ。
次に詩中月日の徴すべきものは、「嘉永元戊申十二月朔夜作」の七絶である。「畏縮去年今日栄。野人浪上玉京城。酔濃客散三更後。一枕水声睡味清。」詩は何《いづ》れの地にあつて作られたかを知らぬが、末句の水声には
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