事実は明であるが、藤陰が同門の人の受けた簡牘を蔵してゐたと云ふことも考へられぬことは無いからである。わたくしは只関五郎が藤陰であるらしいと云ふプロバビリテエの、疇昔に比して分明に其大さを加へたことを認むるに過ぎない。
 わたくしは猶望を将来に属する。わたくしの求むる所の証拠は、縦《たと》ひ今藤陰の裔孫の手に無くとも、他日何処からか現れて来はすまいかと云ふのである。証拠とは奈何《いか》なるものであるか。関五郎の藤陰なることが、藤陰自己若くは其友人の口若くは筆に藉《よ》つて説かれてゐるものを謂ふ。わたくしは猶進んでかう云ふことが知りたい。当時の石川成章が何等かの故があつて、某《それ》の年某の月日に関氏を称し、又五郎と称し、次で某の年某の月日に元の石川氏に復したと云ふことが知りたい。
 国助さんのわたくしに示した所のものは猶二種ある。それは上の書牘二通に比すれば価値の少いものではあるが、わたくしはこれを下《しも》に記して置く。
 其一は一枚の空《くう》封筒である。「京寺町本能寺前大和や喜三郎様御内石川関五郎様。状ちん相済。秋山伊豆。」此秋山伊豆は藤陰に文章の添削を乞うたことのある人ださうである。
 わたくしは上《かみ》に児玉旗山の書を見て、重て関の氏にして、五郎の二字の通称なるべきことを言つた。今此封筒はこれが反証に充《あ》つべきが如くである。しかしわたくしは此の如き反証を認むることを得ない。わたくしはかう判断する。石川成章はある時忽ち関氏五郎と名告つた。秋山伊豆は相識の間ではあつたが、山陽旗山の如く親しくなかつたので、関の氏なるを知らず、錯つて「関五郎」と云ふ三字の通称となした。秋山は恐くは後に続出した三字通称説の元祖であらうと。
 今一つは頼山陽の「南北朝論」である。此書には篠崎小竹の跋があつて、「天保四年癸巳八月、小竹散人篠崎弼書」と署してある。そして此跋は愈《いよ/\》人をして藤陰の関五郎なるべきを想はしめる。「子成喀血。自知不起。昼夜※[#「てへん+參」、8巻−101−上−7]筆。綴記其政記十数巻。衆医沮不聴。君達侍奉。随綴随写。子成喜曰。此子助成吾業者矣。因授此稿。稿在君達。乃伝道之衣鉢。」此数句は、試に嘗て引いた山陽の未亡人里恵の書牘を取つて対比するに、殆ど人に迫つて成章君達《せいしやうくんたつ》の関五郎なるべきを認めざること能はざらしめむとする。里恵の書中
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