る。
書には月日が無い。しかし右の判断にして誤らぬ限は、旗山のこれを裁した月日は略《ほゞ》知ることが出来る。山陽が歿して五十日を経た後、未亡人里恵は醇を旗山の家に通学せしめた。書は此日より後に作られた。即ち天保三年十一月十四日より後に作られた。次で里恵は同年|閏《じゆん》十一月二十五日に書を広江秋水夫妻に与へて、「せつかく此せつ(児玉方へ)遣候(はむ)と存候」と云つた。里恵にして期の如く醇を旗山の家に託したとすると、書は閏十一月の末より前に作られた。
此書の関藤氏に伝はつてゐるのは、明に関五郎の藤陰たるべきプロバビリテエを加ふるものである。
わたくしは又特に旗山が「三郎」と自署して、藤陰を呼ぶに「五郎」を以てしたのに注目する。五郎は既に山陽の口にする所にして、又旗山の筆にする所である。五郎は恐くは二字の通称であらう。関五郎は関氏五郎であらう。縦《たと》ひ師が弟子を呼ぶとしても、又朋友が相呼ぶとしても、何五郎の称を省いて五郎となすことはなささうである。
第二の書牘は頼杏坪《らいきやうへい》の関五郎に与へたもので、其文は極て短く、口上書と称すべき際《きは》のものである。「何ぞ御贐《おんはなむけ》に差上度候へ共有合不申、此鄙著二冊致呈上候。御粲留《ごさんりう》被成可被下候。八月十一日。杏坪。関五郎様。」
此書には国助さんの考証がある。「此手紙は天保四年頼塾を去り帰省、九月江戸昌平黌に遊学する前、広島に赴ける時の事と推定す」と云ふのである。仮に関五郎を以て藤陰とするときは、わたくしは此考証に異議を挾むべき所以を見ない。
わたくしは此書の関藤氏に伝はつてゐるを見て、藤陰の関五郎たるプロバビリテエが更に加はること一層なるを思ふ。
書は猶わたくしに一の新事実を教へる。それは関五郎が若し藤陰ならば、藤陰は京都を離れた後にも暫く此称を持続してゐたと云ふことである。
その二百四十九
わたくしは上《かみ》に関藤国助さんの所蔵の書牘二通を挙げた。それは児玉旗山と頼杏坪とが関五郎に与へたものであつた。そしてわたくしは此を以て関五郎の藤陰成章たるプロバビリテエの加はつたことを承認した。しかし此を以て関五郎の藤陰たる証拠とせむには、少しく物足らぬ心地がする。況や此を以て確証とすべきではあるまい。何故と云ふに、人の関五郎に与へた書が関藤氏の家に伝はつてゐると云ふだけの
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