に見えてゐる関五郎の所為と、小竹の跋文中に見えてゐる君達の所為とは、殆ど別人の事とは見做されぬのである。
わたくしは前《さき》に云つた。政記校訂の事を以て関五郎と藤陰とを結び附くる糸とするは、余りに薄弱であると云つた。小竹の此跋は此糸をして太からしめ強からしむるもので、是も亦他の方面より関五郎が藤陰であるらしいと云ふプロバビリテエを加ふるものとせざることを得ない。其価値は固より彼空封筒の比では無い。
以上記し畢《をは》つた時、浜野氏は江木鰐水《えぎがくすゐ》の日記を抄して寄示した。「天保四年客中日記。四月十六日、石川五郎伴頼三木三郎及高槻慶次郎来。午後余与五郎。訪後藤世張。不在。遂航遊天保山。及晩帰。又遊新町帰。」五郎は果して石川氏であつた、藤陰であつた。鰐水は此に新なる称と故《もと》の氏とを併せ用ゐたのである。わたくしは遂に一の証拠を得た。
その二百五十
わたくしは此年天保癸卯に関藤藤陰が解褐《かいかつ》したことを記して、藤陰と関五郎との同異の問題を覆検した。そして二人の同一人物なる証拠を江木鰐水の日記中に獲た。
此年狩谷氏では懐之《くわいし》が四十歳になつて、後に其養嗣子となるべき三右衛門|矩之《くし》が斎藤氏の家に生れた。
此年榛軒は既に云つた如く四十歳になつた。歳晩偶成の絶句は「四十余年一場夢」を以て起つてゐるが、余の字は全く余つてゐる。妻志保は四十四、女《ぢよ》柏《かえ》は九つであつた。柏軒夫妻は共に三十四、女|洲《しう》三つであつた。長は三十、正宗院は七十三になつた。
弘化元年は蘭軒歿後十五年である。榛軒に「天保十五年甲辰元旦」の七律がある。「暁拝新年謁我公。帰来始見旭光紅。梅花千点玉皆琢。黄鳥一声簧未工。践事唯期伝世業。虚名却怕墜家風。坐賓尊酒両盈満。尽在君恩優渥中。」
正月五日に榛軒兄弟は蘭門の人々と共に本庄村に遊んだ。榛軒詩存に五古一篇がある。「天保十五年甲辰正月五日、同渋江六柳、小野抱経、石川二陶曁家弟柏軒、遊本庄村、恒吉、道悦二童跟随焉、用靖節斜川韻。潜雨膏潤物。及晨俄爾休。幸有旧日約。相伴作春遊。童子疲遠道。買舟泝平流。風加堤上柳。水暖渚辺鴎。停棹拝関廟。散策歩草丘。傾尽瓢中酒。礼数罷献酬。酔歓良無極。山境亦同不。心交如我輩。四海皆良儔。縁是生太平。未知干戈憂。一生如此酔。名利又何求。」 本庄村とは何処か、又其地に
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