の祖父|信政《のぶまさ》の妻の里方であつた。
阿部家では此年五月十九日に正弘が寺社奉行見習にせられ、十一月八日に寺社奉行にせられた。
市野氏では此年光寿が歿して光徳が後を襲いだ。又迷庵の弟光忠が歿したので、その創立した分家は光長の世となつた。
小島成斎は此年貧困のために蔵書を売つた。「余今年四十五、貧窶尤甚、多年研究経籍、一旦沽却、以為養家之資、因賦一絶。研経精密計家疎。不解人生有与無。堪笑如今貧且窶。初知四十五年愚。」
此年榛軒三十七、妻志保四十一、女柏六つ、柏軒と妻俊とは三十一、長二十七、正宗院七十であつた。
天保十二年、蘭軒歿後第十二年である。此年には榛軒詩存中年号干支ある作が三首あつて、皆七絶である。其一。「天保十二辛丑小天台暁行口占。不知身在百花中。袖袂薫々一路風。柳処桜辺天欲曙。白模糊接碧濛朧。」其二と三とは「天保十二辛丑途上口占」と題してある。今これを略する。
柏軒の長女|洲《しう》は此年に生れた。是より先長男|棠助《たうすけ》が生れたが、其年月を詳にしない。並に狩谷氏|俊《しゆん》の出である。
池田氏では此年八月八日に一女が歿した。二世全安さんの蔵する過去帳に、「真法童女、俗名於芳」と書してある。或は参正池田家譜の俶《よし》と同人ではなからうか。
此年榛軒三十八、妻志保四十二、女柏七つ、柏軒と妻俊とは三十二、女洲一つ、蘭軒の女長二十八、蘭軒の姉正宗院七十一であつた。
その二百四十七
天保十三年は蘭軒歿後第十三年である。此秋小島春庵宝素が京都に往つて、歳の暮に帰つて来た。榛軒の妻志保はこれに生父の誰なるかを討《たづ》ねむことを請うたが、此探討には何の効果も無かつた。事は上《かみ》に詳記してある。此年榛軒三十九、妻志保四十三、女柏八つ、柏軒と妻俊とが三十三、これにも既に棠助と洲との一男一女があつて、洲は二つであつた。長は二十九、正宗院は七十二であつた。
天保十四年は蘭軒歿後第十四年である。秋冬の交《かう》に、主家阿部家と伊沢氏とに賀すべき事があつた。彼は閏《じゆん》九月十一日に正弘《まさひろ》が老中に列せられたことである。二十五歳の老中であつた。此は十月に榛軒が躋寿館の講師にせられたことである。館の講筵が公開せられて、陪臣医、町医の往いて聴くことを得るに至つた時に、此任命を見たのである。榛軒は四十歳であつた。
十一月二
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