十八日に、榛軒は祖父|隆升軒信階《りうしようけんのぶしな》筮仕《ぜいし》の記念会を催した。信階が福山侯に仕へてより五十年になつてゐたのである。徳《めぐむ》さんの蔵する所の木村|定良《さだよし》の文を此に録する。
「福山の君につかへたまへる伊沢ぬし、くすしのわざにたけたまへれば、こたび医学館にて、其すぢのふみを講説すべきよし、おほやけのおほせごとかゞふりたまへるは、いと/\めでたきことになむありける。さるはおほぢの君福山の殿にめされ給ひてより、五十年を経ぬと※[#変体仮名ぞ、8巻−96−下−1]。ことし十一月廿八日はその日とて、人々をつどへていにしへをしのび、はた今もかく其わざのさかえ行ことをよろこぼひて、さかほがひせる時、おのれも祖父君よりして、父君今のあるじまで、心へだてぬおもふどちなればとて、かずまへられたれば、たゝへまゐらするうた。家のかぜふきつたへつゝ三代までも世に名高かるわざぞくすしき。定良。」
徳さんの蔵する文書に徴するに、信階筮仕の日は十一月二十八日ではなくて、十月二十八日であつたらしい。其一。「以手紙致啓上候。然者懸御目度義有之候間、明廿八日四時留守居役方え御出可被成候。以上。十月廿七日。阿部伊勢守内海塩庄兵衛、関平次右衛門。伊沢玄庵様。」其二。「覚。伊沢玄庵。右百三十石被下置、表御医師本科被召出候。但物成渡方之儀、年々御家中並之通被成下候。右之通被申渡候、以上。十月廿七日。」記念会は或は榛軒が講師を命ぜられてから発意《ほつい》して催したものなるが故に、一箇月を繰り下げたのではなからうか。
榛軒詩存を検するに、「天保十四癸卯歳晩偶成」の七絶、「天保十四癸卯除夜」の七律|各《おの/\》一がある。今除夜の七律を此に抄する。「老駭年光容易疾。把觴翦燭又迎春。三世垂箴睦親族。一生守拙養天真。方今才士無非譎。自古達人多是貧。依旧増加書酒債。先生漫触内君嗔。」
頼氏では此年山陽の母|梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》が八十四歳で歿した。山陽に遅るること十一年であつた。関藤藤陰《せきとうとういん》の石川文兵衛が福山藩に仕へたのも、亦此年十一月五日である。
わたくしは前《さき》に藤陰の身上に関する問題を提起した。藤陰は本《もと》関藤氏であつた。その石川氏を冒したのは、文化九年六歳の時である。藤陰の石川氏を称することは此より後明治の初
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