事なれば、猶折も可有之と思ひ居候処、女子不幸にして病死、其後右一軸の事申て看病之者等へ尋候へ共、一切分り不申候。但此女不幸にして遊女となり候て、終に死したり。」
 以上が京水の水津本に序して、斎藤平蔵、水津官蔵、水津氏某女の三世の事を記した文の梗概である。わたくしの文は京水の原文に比すれば、稍長きを加へた。或はわたくしは初より原文を写し出した方が好かつたかも知れない。しかしわたくしは京水の文の解し難きに苦んだ故に、読者をして同一の苦を嘗《な》めしむるに忍びなかつたのである。
 京水は水津本を重視し、これを藉り来つて錦橋本の愆《あやまり》を繩《たゞ》さうとした。水津本は記載素樸にして矯飾の痕が無い。京水の重視したのも尤である。しかし水津本と雖も、多少の疑ふべき所がないでもない。池田氏は信重より霧渓晋《むけいしん》若くは京水に至るまでが六世、水津氏の信重の兄信武より斎藤平蔵に至るまでも亦六世である。然るに後者の水津官蔵に至るまでは九世である。今その各世の寿命の脩短《しうたん》を細検せむとするに、歿年及年歯の記註不完全なるがために能はない。しかしわたくしは強ひて深く此等世系の問題に立ち入ることを欲せぬのである。
 わたくしは最後に水津官蔵の女《ぢよ》の薄命と、その京水との奇遇を一顧して置きたい。京水の文に由つて、覊旅の女の語つた所を窺ふに、女の父官蔵が早く既に舛命《せんめい》の苦を閲《けみ》し尽したらしい。そして其女に至つては実に言ふに忍びざる悲惨の境に沈淪したのである。仮に此女は母の死んだ年に生れたものとすると、その怙《ちゝ》[#ルビの「ちゝ」は底本では「ちち」]を失つたのが十五歳、覊旅に死したのが二十歳である。実は此より多少長じてゐたのであらう。女にして若し偶《たま/\》京水に邂逅しなかつたら、其祖先以来の事は全く闇黒の裏《うち》に葬り去られて、誰一人顧みるものもあるまい。知らず、水津本系図の一軸は何者が奪ひ去つたか。
 わたくしの京水自筆の巻物中より得た資料は概ね此に尽きた。わたくしは最後に此に附載するに黄檗山の錦橋が碑の事を以てしたい。

     その二百四十

 蘭軒歿後の叙事中、わたくしは天保七年池田京水の死を語つて、其養孫二世全安さんの蔵する京水自筆の巻物の事に及んだ。そして其末に黄檗山にある京水の伯父錦橋が碑の事を附することとする。
 錦橋は江戸駿河台の
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