家に歿して向島嶺松寺に葬られた。然るに嶺松寺の廃絶した時、錦橋の墓はこれに雕《ゑ》つてあつた杉本仲温撰の墓表と共に湮滅《いんめつ》し、錦橋は惟《たゞ》法諡《はふし》を谷中共同墓地にある一基の合墓上に留め、杉本の文は偶《たま/\》江戸黄檗禅刹記中に存してゐること、既に云つた如くである。
しかし錦橋のために立てられた石は、独り嶺松寺の墓碣《ぼけつ》のみではなかつた。わたくしは黄檗山に別に錦橋の碑のあることを聞いた。そして其石面に何事が刻してあるかを知らむと欲した。
一日《あるひ》京都より一枚の葉書と一封の書状とが来た。先づ葉書を読めば、並河《なみかは》総次郎さんがわたくしに黄檗の錦橋碑の事を報ずる文であつた。「先日檗山に参り候節、錦橋先生の墓にも詣候。墓は檗山竜興院の墓地、独立《どくりふ》の墓の側《かたはら》に立居候。前面には錦橋池田先生墓、(此一字不明)弟子近藤玄之、佐井聞庵、竹中文輔奉祀、右側には文化十三年丙子九月六日と有之候。其他何も刻し無之候。竜興院には位牌も有之候へども、何事も承知不致居候。同院主は拙家|続合《つゞきあひ》にて、錦橋先生の伝記等一見致度様申居候。」
次にわたくしは封書を披いた。是は弟潤三郎が同じ錦橋碑の事を報じた書であつた。「好天気にて休館(京都図書館の休業)なるを幸《さいはひ》十時頃より黄檗なる錦橋の墓を探りに出掛候。若し碑文にてもあらば、手拓して御送申度、其用意も致候。先づ寺務所を訪ひ、墓の所在を問はむと、刺を通じ候処、僧俗二人玄関に出候。僧は名を聞きしことある学僧にて、倉光治文《くらみつちぶん》師に候。俗の方は昔日兄上に江戸黄檗禅刹記の事を報ぜし吉永卯三郎君に候。吉永は恰も好し昨日門司より来りたる由にて、奇遇を喜候。さて二人に案内を請ひて墓の所に至るに、墓は尋常の棹石《さをいし》にて、高さ二尺七寸、横一尺、趺《ふ》は二重に候。」弟は此に刻文を写してゐるが、上《かみ》の並河氏の報ずる所と同じ事故略する。年月日を刻してある右側は「向つて右」ださうである。「墓前に幅一尺二寸、高さ七寸の水盤を安んじ、其前面には横に「錦橋先生墓前置」と刻し、左側面に「玄之猶子南都仲元益拝」と刻し有之候。誌銘なきに失望致候へども、墓の模様大概記して差上候。寺務所に帰りて暫く談話し、吉永君には兄上の研究を援助せられ候様頼置候。」
黄檗山の錦橋碑の事は、此並河氏
前へ
次へ
全567ページ中370ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング