。信重の子|嵩山正直《すうざんまさなほ》の弟|杏朴成俊《きやうぼくなりとし》は、信道五世の孫|光《ひかる》の養子となつて水津氏に復《かへ》り、成俊の子成豊は水津氏を継ぎ、其弟正俊が又養はれて嵩山の子となつた。即ち錦橋の祖父である。
水津本に成豊の子が信成《のぶなり》、信成の子が官蔵となつてゐて、京水本はこれを襲用してゐる。
然るに水津本の序に、京水は官蔵を「富小路殿御内斎藤平蔵悴也」と書してゐる。今再び水津本を検するに、水津光の弟政之助が今出川家の家人斎藤|帯刀《たてはき》の養子となつて、子平蔵をまうけた。推するに此平蔵が富小路家に仕へて、子官蔵をまうけ、官蔵が信成の後に一たび絶えた水津氏を冒したのであらう。同じ序文にかう云つてある。「平蔵の実子なれども、斎藤氏を称へず、水津を称候は本家相続の心なるべし。」
官蔵は同じ序に拠るに、名を「官大夫と改、武家奉公の望有て、相模国何某といふ剣術名誉之人をたより、弟子となつて兵法免許をも受たれども、不仕合にて可然奉公在付も無之、再度帰京して近衛公に奉公」した。
官蔵の妻《さい》は序に、「今出川殿御奉公人にて、生国は大津成よし」と云つてある。此妻は一女を生んで歿した。「寛政九年死去、其月は不覚、法名は円浄、七日の忌日なり」と云つてある。「不覚」とは其|女《ぢよ》が記憶してをらぬを謂ふ。
官蔵の女《むすめ》は恃《はゝ》を失つた後十一年、「文化五甲子夏故ありて此江戸に来」た。然るに女が江戸に来た後三年、文化八年に官蔵は歿した。そして水津系図を女に譲つた。「形見とて此一軸を大事にせよと被申遺」と云つてある。推するに官蔵は京都にあつて、近衛家の家人として歿し、系図を江戸へ送つたのであらう。
此女が京水に邂逅するのである。
その二百三十九
わたくしは京水本系図の来歴より泝《さかのぼ》つて水津本系図の来歴に及び、水津本が京都で歿した水津官蔵の手より、江戸にゐる女《むすめ》の手にわたつたことを言つた。
京水が官蔵の女に遭つて水津本を借抄したのは文化十三年である。京水は水津本の序にかう云つてゐる。「文化十三年水津家系図を所持の女人に逢て、(中略、)其一軸を仔細申聞て仮受写畢。」
京水は序に此女の末路を叙して云つた。「此女の身分世話をも致遣可申心底之処、元来風と所持の一軸の表書を見たるまゝに懇に申懸候迄にて、昨今の
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