信士、年二十三」と云つてある。二世全安さんの家の過去帳には、「本所報恩寺中祥善寺」に作つてある。善行寺若くは祥善寺は養家斎藤氏の菩提所であらう。諸子中此人は嶺松寺に葬られざるが故に、わたくしは特に寺名を抄出した。此墓は或は今猶存してゐるかも知れない。此年瑞英四十八歳であつた。
六年には六月二十二日に瑞長の長男敬太郎が死し、七月|朔《さく》に其次男が生れ、二日に死した。彼は「天保六乙未六月廿二日卒、(中略)仏諡知幼」と云ひ、此は「天保乙未七月朔生、二日卒、仏諡泡影」と云つてある。泡影の死が京水自筆の巻物の最後の記載である。此年瑞英四十九歳であつた。
七年十一月十四日に京水瑞英は五十歳で歿した。法諡《はふし》宗経軒京水瑞英居士である。文政四年の自記に「仏諡可用宗経」と云つてあつた。此|諡《おくりな》には僧侶の撰んだ文字は一字も無い。跡には九子二女を生んだ四十三歳の妻常、二十七歳の嫡子瑞長、二十三歳の三男生田玄俊、十九歳の五男直吉、十七歳の六男程安、十二歳の七男全安、十歳の次女俶、三歳の九男政之助が遺つた筈である。三男玄俊は父京水が祖先の氏を襲《つ》がしめたものであらう。
その二百三十八
わたくしは池田京水自筆の巻物を得て、錦橋初代瑞仙の祖先、錦橋自己乃至其子孫の事蹟を覆検し、就中《なかんづく》錦橋の弟文孝堂玄俊と、其実子にして一たび伯父錦橋に養はれ、後廃せられて自立した京水瑞英との事蹟は、その未だ曾て世に公《おほやけ》にせられなかつた史実なるが故を以て、特にこれを細叙した。
然るに彼巻物の内容にして、わたくしの此に補記せざるべからざるものが猶一つある。それは巻物の主要部分たる参正池田家譜の来歴である。初め京水は伯父錦橋の幕府に呈した系図即ち錦橋本系図を蔵してゐた。文化十三年、伯父錦橋の歿する年に至つて、京水は料《はか》らずも系図の一異本を観た。即|水津本《すゐづぼん》系図である。京水は此水津本を用ゐて、錦橋本に訂正を加へ、新に参正池田家譜を編した。即京水本系図である。
此故に参正池田家譜の来歴を語らむとするには、溯つて水津本の来歴を語らなくてはならない。
既に云つた如く、池田氏は古く水津氏と聯繋してゐる。錦橋十八世の祖|頼氏《よりうぢ》の弟|信吉《のぶよし》は水津重時の家を継いだ。降つて錦橋の高祖父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた
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