く世間の認むる所となつて、官辺にもこれをして書を医学館に講ぜしめむとする議が起つたので、二世瑞仙は此届出をなさざることを得なかつたのであらう。京水の自記に、「全快届の始末は本末記一巻に詳なり」と云つてあるが、其書は今伝はらない。瑞英三十四歳の時である。
「同(文政)三年再医学館に出。」此自記の文はわたくしをして二つの事を推定せしむる。瑞英は享和元年十六歳で、猶杏春と称してゐた時、早く既に躋寿館《せいじゆくわん》に勤仕してゐたと云ふ事が其一である。躋寿館に於る当時の職は素読の師であつただらう。又今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》つて「医学館に出」と云ふは、講書のためであると云ふ事が其二である。
三世瑞仙直温の親類書には、京水の総領除願済《そうりやうのぞきねがひずみ》の事を記した次に、「然る処年を経、追々丈夫に罷成、医業出精仕候に付、文政三(庚)辰年三月療治為修行別宅為致度段奉願候処、願之通被仰付」と云つてある。是は病気に依つて廃嫡せられた瑞英は、旧に依つて瑞仙の家にあるべき筈なるが故に、幕府に其現住所を公認せむことを請うたのであらう。又此公認は瑞英をして躋寿館に勤仕せしむるに必要であつたのであらう。親類書には前年の全快届をも載せず、此年の躋寿館勤仕の事をも載せない。或はおもふに、此別宅願は全快届に伴つたもので、事は前年にあつたのではなからうか。「文政三」は「文政二」の誤ではなからうか。しかし「辰」の字があるので、此に録して置く。
家譜に拠るに、此年瑞英の六男末吉が生れた。「八月廿一日生」と云つてある。
躋寿館再勤仕と六男の出生とは瑞英三十五歳の時の事である。
次年は文政四年で、京水瑞英が自記の筆を把つた年である。此時二世瑞仙の家と瑞英の家との間に、板木問題と云ふ事が起つた。
その二百三十六
わたくしは文政四年京水池田瑞英が三十六歳になつた時に、瑞英の家と宗家たる霧渓二世瑞仙の家との間に、板木問題と云ふ事が起つたと云つた。京水自記の文にかう云つてある。「同(文政)四年、痘科辨要板木を、家元の弟子養子二世医官直郷、通称は先代の名を襲ひ、是家禄を保つ身にて、此板木を売物に出すに就て、善直方へ購取る一件は、余が遺言録一巻中に詳なり。」
問題の大要は此文に由つて推知することが出来る。錦橋初代瑞仙は痘科辨要《とうくわべんえ
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