う》を著した。其書上には「同(文化)八(辛)未年八月十二日、痘科辨要十巻著述出板に付献上仕候」と云つてある。此板木は家に伝へてあつた。それを霧渓が売つた。瑞英は商賈の手よりこれを買ひ取つたと云ふのである。その詳細なる事情に至つては、京水の「遺言録」が佚亡したために、今知ることが出来ない。
当時霧渓は養父錦橋の職禄を襲ぎ、駿河台より柳原岩井町の賜邸に遷り、名位を占め、恩栄を荷つてゐた。それが板木を売つて、技を售《う》り口を糊してゐる京水をして購《あがな》はしめた。京水憤慨の状は自記の数句の中にも見《あらは》れてゐる。
わたくしは此に註して置きたい事がある。それは三種の書の佚亡である。第一は生祠記《せいしき》で、京水の門人が師の宗家の継嗣を辞した事を記したものである。第二は本末記で、京水が自ら全快届の事を記したものである。第三は此遺言録で、京水が自ら板木買戻の事を記したものである。わたくしの京水に関する研究は、其自筆の巻物を見ることを得、僅に右三種の書の名目を知るに至つて、早く既に著き進歩をなした。しかし若し三種の書が未だ全く湮滅《いんめつ》せずにゐて、他日一たび発見せられ、わたくしがこれを目睹することを得たならば、微顕闡幽《びけんせんいう》の真目的は此に始て達せられるであらう。
此年十一月十九日は京水瑞英が往事を自記した日である。「朝より夜の子の刻に至るの間、調薬看病の暇に書」と云つてある。「看病」は恐くは病客を診する義で、家に病むものがあつて看護する義ではあるまい。此より下《しも》は巻物に年月を逐うた記事が無いから、京水の後日に家譜中に補記した所を拾ひ集めて、年月に従つてこれを次第する。
文政六年には一女子が生れた。即ち瑞英の長女である。その名の記載を闕いてゐるのは、後三歳にして夭したためであらう。生日は「十月十一日」である。瑞英三十八歳の時である。
文政八年には七男が生れた。「全吉、文政八(乙)酉九月七日出生、阿部侯長臣町野平介、初名多膳、幼名を贈」と記してある。此全吉が後に全安と改称した。榛軒の女《ぢよ》柏《かえ》の初の婿、わたくしの相識ることを得た二世全安の養父である。全安の名附親町野は恐くは福山侯|正精《まさきよ》の臣であらう。しかし武鑑には見えない。
「霜月廿八日」に二年前に生れた長女が死んだ。法諡《はふし》「含章童女」である。全吉が生れ、含章《
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