十年居を浅草誓願寺門前町に移す。」是が瑞英二十八歳の時である。
「十一年三男桓三郎生。十月二日舅死するに依て、同八日甲州に至る。十月廿九日帰于江戸。」三男桓三郎の生れたのは、参正池田家譜に拠るに、「七月七日」である。十月二日には甲斐国|石和《いさわ》に於て、瑞英の外舅《ぐわいきう》小林総右衛門が死んだ。瑞英は八日に石和へ往つて、二十九日に江戸に還つた。妻常は定て同行したことであらう。
家譜桓三郎の下《もと》に「幼名宮村隆円の贈る所也」と云つてある。宮村の名は幕府の官医中に見えない。桓三郎は後一たび玄英と称し、終に祖父玄俊の称を襲いだ。
三男桓三郎が生れ、外舅小林の歿したのが、瑞英二十九歳の時である。
文化十二年八月に瑞英は家を下谷《したや》三|枚橋《まいばし》「御先手組屋敷」に買つた。是は次年の記に、「去年八月、善直因戸田氏之恵、此三枚橋の家を得たり」と云つてある。「此三枚橋の家」と云つたのは、文政四年に三枚橋の家にあつて此記を作つたからである。「戸田氏」通称は勘介である。其|詳《つまびらか》なることは未だ考へない。
その二百三十五
わたくしは京水池田瑞英の事蹟を叙して文化十三年に至つた。四男藤四郎の生れた年である。家譜に「七月廿日生、同壬八月三日死」と書してある。法諡《はふし》は「奇藤童子」である。九月六日には前《さき》の養父たる伯父錦橋初代瑞仙が死んだ。瑞英に代つて錦橋の後を襲《つ》いだ霧渓二世瑞仙は此年正月二十六日に養子願を出し、三月十一日に願済となり、十二月二十七日に「跡式無相違被下置」と云ふこととなつた。瑞英は三十一歳、二世瑞仙は卅三歳の時である。初代の未亡人沢は五十二歳であつた。
文政元年には瑞英の五男|直吉《なほきち》が生れた。家譜に拠るに「六月廿五日」生で、「戸田勘介幼名を贈」と記してある。又自記に「同年次男斎藤氏え養子」と云つてある。斎藤氏は家譜に「松浦大和守殿医師斎藤民俊」と記してある。松浦大和守|皓《ひかる》は平戸松浦氏の支封で一万石の諸侯である。次男盤次郎は此より斎藤俊英と称し、後又|瑞節《ずゐせつ》と改めた。瑞英三十三歳の時である。
「同(文政)二年、病気全快之届を出す。」全快届は前に初代瑞仙の出した「総領除」の弥縫《びほう》である。二世瑞仙の手に由つて出されたことであらう。当時の事情を推測するに、京水瑞英の学術は漸
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