でも、伯父瑞仙は姪《てつ》瑞英との交を絶たずにゐて、名を従孫《じゆうそん》に命じたと見える。雄太郎は後の瑞長直頼《ずゐちやうなほより》である。此年瑞英二十五歳。
「同八年帰于江戸。再神田岩井町代地に僑居す。」瑞英は文化八年二十六歳にして、妻常と長男雄太郎とを率《ゐ》て江戸に還つた。此文の「再」の字の上には、或は「同九年」の三字を脱してゐるかも知れない。家を岩井町代地に移したのは、八年でなくて九年であつたかも知れない。何故と云ふに、自記には此|下《しも》に直に「盤次郎生」と書してある。次男盤次郎の生れたのは文化九年で、此人は後斎藤氏を冒し、天保五年に二十三歳を以て終つた。「同九年」の三字は若し「再」の字の上に脱してゐぬならば、「僑居す」の下《しも》に脱してゐなくてはならぬのである。

     その二百三十四

 わたくしは京水池田瑞英の事蹟を、其自記に拠つて続抄する。文化九年には瑞英の次男盤次郎が神田岩井町代地の家に生れた。生日は「七月卅日」である。「盤次郎の名は杉本仲温の贈る所なり」と云つてある。是は錦橋初代瑞仙の墓表を撰んだ杉本である。杉本は霧渓二世瑞仙を識つてゐて、これがために錦橋の墓表を撰び、又瑞英を識つてゐて、其次男に命名した。瑞英は二世瑞仙と善くなかつた形迹があるが、杉本は其間に立つて、瑞英に好意を表してゐたらしい。
 わたくしは此関係を証するに足る一の奇なる事実を発見したやうにおもふ。杉本は既に云つた如く、霧渓撰の行状に本づいて錦橋の墓表を作つた。そして錦橋の事蹟には、行状と墓表との間に一も相殊なることが無い。独り文中瑞英|善直《よしなほ》を出すに至つて、杉本は行状に無き所の一句を插入した。行状には「男曰善直、多病不能継業」と云つてある。墓表には「先生有子善直、才敏而好学、多病而不能継其業、以其門人直卿為嗣」と云つてある。杉本は己の意志よりして「才敏而好学」の句を添へたのである。わたくしは初め墓表を読んだ時、此句に躓いて歩を駐《とゞ》めた。そして霧渓の嘱を受けて撰文した杉本が、何故に此句を添へたかを疑つた。今にして思へば、瑞英と親善にして其子に命名する杉本は、此句を著けざることを得なかつたのであらう。杉本が既に此句を著けたとき、霧渓も此の公平なる回護に対して、敢て抗議をなさなかつたのであらう。
 盤次郎の生れた時、瑞英は二十七歳であつた。
「同(文化)
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