つて茶山は病が※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えた。十九日に犬塚|印南《いんなん》、今川槐庵、蘭軒の三人と一しよに、お茶の水から舟に乗つて、墨田川に遊んだ。狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も同行の約があつたが、用事に阻げられて果さなかつた。舟中で四人が聯句をした。蘭軒雑記に「聯句別に記す」と云つてあるが、今知ることが出来ない。
印南、名は遜《そん》、字《あざな》は退翁、通称は唯助、一号は木王園《もくわうゑん》である。寛延三年に播磨国姫路の城主酒井|雅楽頭忠知《うたのかみたゞとも》の重臣犬塚純則の六男に生れ、同藩青木某の女婿となり、江戸に来て昌平黌の員長に推された。尋《つい》で本氏《ほんし》に復し、黌職《くわうしよく》を辞し、本郷に家塾を設けた。寛政の末だと云ふから、印南が五十前後の頃である。印南は汎交《はんかう》を避け、好んで書を読んだ。講書のために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺|公澄法親王《こうちようはふしんのう》の座所とへ伺候する外、折々酒井雅楽頭|忠道《たゞみち》の屋敷の宴席に招かれるのみであつた。印南は嘗て蘭軒に猪牙《ちよき》舟の対《たい》を求められて、直《たゞち》に蛇目傘と答へたと蘭軒雑記に見えてゐるから、必ずや詩をも善くしたことであらう。
その二十五
印南、茶山、蘭軒と倶に、墨田川に花見舟を泛《うか》べた今川槐庵は、名は※[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻−49−上−7]《こく》、字は剛侯《かうこう》である。わたくしは※[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻−49−上−7]は毅ではないかと疑ふが、
第《しばら》く※[#「くさかんむり/姦」、7巻−49−上−8]斎《かんさい》詩集の録する所に従つて置く。
山陽の撰んだ茶山の行状は、「正月召之東」の句に接するに、「遂告暇遊常州」の句を以てしてある。茶山の著述目録の中に、常遊記《じやういうき》一巻とあるのが、恐くは此行を紀したものであらう。しかしわたくしは未だ其書を見ない。姑《しばら》く集中の詩に就て検するに、常遊雑詩十九首があつて、中に太田と註した一絶がある。其転結に「五月久慈川上路、女児相喚采紅藍」と云つてある。久慈川に近い太田は、久慈郡太田であらう。五月の二字から推せば、さみだれの頃の旅であつただらう。蘭軒の集には其頃
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