|梅天断梅《ばいてんだんばい》の絶句|各《おの/\》二首がある。梅天の一に「山妻欲助梅※[#「蕩」の「昜」に代えて「且」、第4水準2−86−32]味、手摘紫蘇歩小園」の句があり、断梅の一に「也有閑中公事急、擬除軒下曝家書」の句がある。※[#「蕩」の「昜」に代えて「且」、第4水準2−86−32]《そ》は説文《せつもん》に「酢菜也」とある。梅※[#「蕩」の「昜」に代えて「且」、第4水準2−86−32]《ばいそ》も梅※[#「「韲/凵」、7巻−49−下−8]《ばいせい》も梅漬である。茶山が常陸巡をしてゐる間、蘭軒はお益《ます》さんが梅漬の料に菜圃の紫蘇を摘むのを見たり、蔵書の虫干をさせたりしてゐたと見える。頼氏の修史が山陽一代の業で無いと同じく、伊沢氏の集書も亦蘭軒一代の業では無いらしい。
秋に入つてから七月九日に、茶山蘭軒等は又墨田川に舟を泛べて花火を観た。一行の先輩は茶山と印南との二人であつた。
同行には源波響《げんはきやう》、木村|文河《ぶんか》、釧雲泉《くしろうんせん》、今川槐庵があつた。
源波響は蠣崎《かきざき》氏、名は広年《くわうねん》、字は世詁《せいこ》、一に名は世※[#「示+古」、第3水準1−89−26]《せいこ》、字は維年《ゐねん》に作る。通称は将監《しやうげん》である。画を紫石応挙の二家に学んだ。明和六年生だから、此年三十五歳であつた。釧雲泉、名は就《しう》、字は仲孚《ちゆうふ》、肥前国島原の人である。竹田《ちくでん》が称して吾国の黄大癡《くわうたいち》だと云つた。宝暦九年生だから、此年四十六歳であつた。五年の後に越後国出雲崎で歿した。其墓に銘したものは亀田|鵬斎《ぼうさい》である。文河槐庵の事は上に見えてゐる。
茶山の集には「同犬冢印南今川剛侯伊沢辞安、泛墨田川即事」として、七絶七律|各《おの/\》一首がある。律の頷聯《がんれん》「杯来好境巡須速、句対名家成転遅」は印南に対する謙語であらう。蘭軒の集には「七夕後二日、陪印南茶山二先生、泛舟墨陀河、与源波響木文河釧雲泉川槐庵同賦」として七律二首がある。初首の七八「誰識女牛相会後、徳星復此競霊輝」は印南茶山に対する辞令であらう。後首の両聯に花火が点出してある。「千舫磨舷搶作響。万燈対岸爛争光。竹枝桃葉絃歌湧。星彩天花烟火揚。」わたくしは大胆な記実を喜ぶ。茶山は詩の卑俗に陥らむことを恐れたものか、一語
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