継母であつた。推するに霧渓二世瑞仙の所謂「嘗游于藝華時、妾挙一男二女、(中略)二女皆夭」の文中、妾《せふ》と一男とは虚で、二女は実であつた。
玄俊は京都に来た翌年、天明三年に妻を娶《めと》つた。近江国|栗太郡《くりもとごほり》草津の人宇野杢右衛門の姉|秀《ひで》と云ふものであつた。婚姻をしたのは春の初であつただらう。此年の内に長男が生れた。
天明四年に玄俊の長男は夭して、次男が生れた。翌五年に次男も亦死んだ。次で六年五月五日に三男が生れた。名は貞之介であつた。是が後の京水である。貞之介の母秀は此月二十六日に死んだ。恐くは産後の病であつただらう。法諡《はふし》は光岳林明信女、五条高倉の宗仙寺に葬られた。此法諡は正しく宗家三世瑞仙直温の書いた過去帖に載せてある。そして「三十六歳」と注してある。此に由つて観れば宇野氏秀は宝暦元年生で、三十三歳にして玄俊に嫁したのである。京水の貞之介は父五十一、母三十六の時の子である。
貞之介は恃《はゝ》を失つた直後に、伯父瑞仙の養子にせられて大坂に往つた。自筆の巻物に「善郷養て兄弟二人を祐ると云意を用て祐二と改む」と云つてある。「兄弟二人を祐る」とは、玄俊は家に女子が無いので、赤子《せきし》を兄に託して祐けられ、兄瑞仙は男子が無いので、貞之介の祐二を獲て祐《たす》けられたと云ふ意であらう。瑞仙は後妻があり、先妻の生んだ長女千代も既に十四歳になつてゐたので、貞之介の世話をすることは容易であつただらう。
その二百二十八
京部東洞院姉小路に住んでゐる池田|玄俊《げんしゆん》の三男祐二は、母宇野氏|秀《ひで》が死んで、大坂平野町の伯父池田瑞仙に養はれた。時に天明六年で、玄俊は長男、次男が共に夭折して、祐二は其一人子であつたが、家に女の手がなかつたのである。これに反して瑞仙の家には後妻《こうさい》があり、又十四歳になる先妻の女《むすめ》千代がゐて、当歳の祐二の世話をする便《たつき》があつた。
中一年置いて、天明八年に祐二は始て生父の許《もと》に来た。京水自筆の巻物に、「里帰の祝の為に入京」と書してある。是が正月二十九日であつたと推測せられる。何故と云ふに、其次に「大火に因て次の日再大坂に帰る」と書してあるからである。「大火」とは正月|晦日《つごもり》の団栗辻《どんぐりのつじ》の火事なることが明である。三歳の祐二の此往復は、定
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