《おほやけ》にせられざる事実である。
 周防国|玖珂郡《くがごほり》通津村《つづむら》に住んでゐた池田杏仙正明に三男一女があつた。男子は幾之助、久之助、丹蔵の三人で、長は後の初代瑞仙、仲は玄俊である。季《き》は夭折した。長は元文元年に生れ、仲は中一年隔てて元文三年に生れた。
 久之助、名は信郷《のぶさと》、長じて玄俊と称した。号は文孝堂と云つた。
 玄俊は天明二年壬寅四十五歳にして故郷を離れ、八月二日に大坂に至り、二十一日に夜舟に乗り込んで、二十二日巳刻に伏見に著き、それより京都東洞院姉小路に住むこととなつた。
 玄俊の都に上つたのは医術を修めむがためであつた。故郷にある時|夙《はや》く医業をなし、殊に家学の痘科には精通してゐたので、京都に来てからは本道と産科との師を求めた。本道の師は清水荘介と云つて、新町通丸太町下る西側に住んでゐた。此人は後名を祥助と改め、家も同じ町の東側に移つた。玄俊は此人に就いて、主に傷寒の治法を学んだ。産科の師は賀川玄吾《かがはげんご》で、四条通東洞院西へ入る所に住んでゐた。産論の著者玄悦の孫、産論翼《さんろんよく》の著者|玄迪《げんてき》の子である。

     その二百二十七

 玄俊が京都に上るに先《さきだ》つて、其兄幾之助は大坂に来てゐた。それが何年であつたか不明であることは、既に云つた如くである。推するに明和安永の間の事であらう。幾之助は当時早く瑞仙と称してゐたのであらう。家は京水の記載に拠れば平野町であつた。霧渓は「西堀江隆平橋南涯」と記してゐるが、是は同一の家を指すものと見ることが出来よう。玄俊が京都に上つた時、大坂にゐた瑞仙は四十七歳、玄俊は四十五歳であつた。
 京都の玄俊は独身であつたが、大坂の瑞仙は妻があつて九歳になる女《むすめ》を一人連れてゐた。わたくしは池田宗家三世瑞仙直温の書いた過去帖の正確なことを、種々の方面より看て知つたから、今此に拠つて初代瑞仙の妻の事を記する。瑞仙は早く安永三年に妻があつて長女千代を生ませてゐる。安永二年若くは三年に大坂にゐて妻があつたことは明白である。此妻は正行寺《しやうぎやうじ》の女《むすめ》であつた。此妻は次で安永五年に次女を生んだ。そして八年に死んだ。過去帖の「釈妙仙信女」である。九年に次女が死んだ。過去帖の「智瑞童女」である。玄俊が京都に上つた時連れてゐたのは後妻で、千代のためには
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