《さだめ》て養母が連れて往き連れて復《かへ》つたことであらう。
わたくしは玄俊の姉小路の家は必ず焼けたものと思ふ。そして次の移転の記事を以て、火後の新居を謂つたものとする。「其後信郷居を御池通車屋町西に入北側より二軒目に卜す。」鰥夫《くわんぷ》玄俊は恐くは此家に独居してゐたであらう。しかし土著の人の信任は厚かつたものと見える。「其町の年寄役を兼ぬ」と云つてあるからである。
わたくしは此所《このところ》に瑞仙の書上《かきあげ》を参照しなくてはならない。「時天明八戊午年人始て曼公の術あることを知る」と云ふ文である。是に由つて観れば、周防国から出た池田氏兄弟は、兄は大坂にあつて技術を以てし、弟は京都にあつて徳望を以てし、同時に地方の信任する所となつたのである。此時兄は五十三、弟は五十一であつた。
尋《つい》で改元の年を中に置いて、寛政二年に瑞仙の後妻が死んだ。此人も亦先妻と同じく名は伝はらぬが、諡《おくりな》が伝はつてゐる。三世瑞仙直温の書した過去帖に、「釈寿慶信女、同(瑞仙)後妻、寛政二庚戌十月廿四日」と云つてあるのが是である。瑞仙の家は主人五十五歳、長女千代十七歳、養子祐二五歳の三人世帯となつた。
わたくしは瑞仙の後妻の死を此に插叙して置いて、さて京水の記に戻る。「時寛政二年善郷居を京に移すの志あるに因て、先づ善直を信郷が家に贈」と云ふ文である。瑞仙|善郷《よしさと》は自ら京都に入らむと欲して、先づ養子祐二を弟玄俊|信郷《のぶさと》の車屋町《くるまやまち》の家に遣つたのである。
京水の記は次に「同(寛政)三年善郷女於千代を従え、共に信郷が家に寓すること半年を尽し、始て居を油小路の裏店に求」と云つてある。
瑞仙が祐二を車屋町に遣つたのは、誰に託して遣つたか知らぬが、其時は後妻|寿慶《じゆけい》の歿日より後であらう。十月二十四日より後であらう。瑞仙は二年の暮近くなつて、先づ祐二を京へ遣り、三年に入つて自分も千代を率《ゐ》て京に入り、弟の家に寄寓した。そして此より半年を過した後、即ち三年の秋の頃京都油小路の裏店《うらだな》に住むこととなつた。
是が瑞仙の書上に「寛政二年辛亥(中略)請邀る者あり、因て暫く京都に寓」すと云ひ、二世瑞仙晋撰の行状に「後君厭浪華市井之囂塵、寛政壬子秋、游于京師」と云つてある事蹟の真相である。「辛亥」は二年にあらずして三年、「壬子」は四
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