錦橋初代瑞仙は小字《せうじ》を幾之助と云つた。名は善郷《よしさと》、一の名は独美《どくび》、字《あざな》は善卿《ぜんけい》、錦橋は其号、瑞仙は其通称であつた。わたくしは前《さき》に錦橋が公文に字善卿を書したのを怪んだ。京水はこれを辨じてゐる。「善郷。或作善卿者。以字混名乗也。」
 錦橋の年齢は京水の記載を得て一層の紛糾を加へて来る。系図京水本の下《もと》に「実以元文元年生、一伝享保二十年生」と註してゐる。按ずるに所謂「一伝」は錦橋の養嗣子直卿撰の行状、嶺松寺の墓表等と符する。江戸|黄檗禅刹記《わうばくぜんさつき》を閲《けみ》するに、墓表は「文政戊寅仲夏、江都侍医法眼杉本良仲温撰、孝子池田晋直卿謹書併建之」と署してあつて、全く直卿撰行状に依拠して草したものである。既に行状を読んだものは、墓表中より殆ど一の新事実をも発見することが出来ぬのである。

     その二百二十四

 錦橋初代池田瑞仙は、系図諸本及|書上《かきあげ》に拠るに、寛保二年壬戌に怙《ちゝ》を喪つた。書上は此を「八歳」の時だとしてゐる。実は七歳である。此より錦橋は槇本坊詮応《まきもとばうせんおう》に就いて痘科《とうくわ》を学んだ。書上に詮応を「叔父」と称してある。系図錦橋本に従へば、詮応は嵩山《すうざん》の孫である。京水本に従へば信重の女《ぢよ》、溝挾《みぞはさ》氏室に瀬兵衛某と信之《のぶゆき》との二子があり、信之に信吉《のぶよし》と詮応との二子があつた。即ち信重の曾孫、錦橋の従祖父である。
 錦橋は書上に拠るに、二十歳にして桑原玄仲に雑病の治術を受けた。二十歳は宝暦五年である。しかし前の「八歳」の誤を承《う》け来つたとすると、宝暦四年十九歳の時となるであらう。
 錦橋は書上に拠るに、二十八歳にして母と共に安藝国に往つた。行状に此を宝暦十二年壬午の事としてゐる。享保二十年生として推算したものである。前例に従つて訂正すれば、宝暦十二年二十七歳の時の事となる。
 錦橋は安藝より大坂に移つた。書上は此を「寛延三庚午年」としてゐる。非常なるアナクロニスムである。京水が「按此年善郷年十五なり、未郷里を離ざるの前にあり、恐くは年号書損あるべし」と註した。養子|霧渓《むけい》は行状に「安永丁酉冬(中略)年四十」と書した。何の拠《よりどころ》あつての事か不詳である。安永六年丁酉に錦橋は、享保二十年生として四十三、正説
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