元文元年生として四十二になつてゐた。わたくしは錦橋の大坂に往つたのは、安永三年より前でなくてはならぬと思ふが、其理由は下《しも》に挙げよう。
 錦橋は書上に「天明八戊午年人始て曼公の術ある事をしる」と云つた。大坂にあつて人に信ぜらるゝに至つたことを謂ふのである。「戊午」は戊申の誤であらう。正説元文生として五十三歳の時である。
 錦橋は書上に「寛政二辛亥京都痘瘡大に流行、予家治痘之術ある事を聞て請邀る者あり、因て暫く京都に寓」と云つてゐる。辛亥は寛政三年で、元文生として五十六歳の時である。霧渓は「寛政壬午(中略)年五十五」と改めた。その拠る所を知らない。寛政四年壬午は享保生として五十八、正説元文生として五十七である。
 錦橋は書上に拠るに、「寛政八丙辰十二月廿六日」に江戸の召命を受け、翌年入府した。行状には入府の時を「丁巳正月(中略)年六十四」としてゐる。享保生とすれば六十三、正説元文生とすれば六十二である。
 錦橋の歿日は京水が下《しも》の如くに書してゐる。「今按文化十三年丙子閏八月左之地面拝領仕度願出候処、同九月十九日柳原岩井町代地高坂茂助上り地七拾八坪余願之通被仰付候旨、植村駿河守殿御書附を以て被仰渡候。此実は先人御死去之後なり。実は同月六日死。」此文化丙子九月六日の歿日は霧渓も亦正しく書してゐる。しかし年「八十三」は誤である。享保生とすれば八十二、正説元文生とすれば八十一である。
 要するに錦橋書上の原文に従へば、年次と錦橋の年齢とは一も符合せぬのである。霧渓撰行状中その偶《たま/\》符合してゐるのは、享保乙卯生と云ふことと、宝暦壬午二十八歳と云ふこととの二である。そして此乙卯と壬午とは錦橋が書せずして、霧渓が始て書したものである。

     その二百二十五

 池田京水自筆の巻物はわたくしの新に獲た資料である。わたくしは此に由つて痘科池田氏累世の事蹟を覆検し、錦橋初代瑞仙の死に至つた。
 錦橋の妻の事は書上《かきあげ》に見えない。養嗣子霧渓撰の行状に至つて、始て「君在于京師時、娶佐井氏、而無子」と云つてある。霧渓の子|直温《ちよくをん》の繕写《ぜんしや》した過去帖には「芳松院殿緑峰貞操大姉、同人(初代瑞仙)妻、佐井氏、実菱谷氏女、嘉永元戊申年十二月六日卒、葬于同寺(嶺松寺)」と書してある。名は後に引くべき京水の文に沢と書してある。
 錦橋の京都に入つた年を
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