い。戴笠は或は万治元年に江戸に来た前に、既に一たび岩国に往つたであらうか。京水は疑を存してゐる。
嵩山正直の子は正俊《まさとし》、正俊の子は杏仙正明《きやうせんまさあき》、正明の子は即ち錦橋である。是は京水本に従つたもので、錦橋本は正俊を脱してゐる。
その二百二十三
わたくしは池田京水の祖先を説いて鼻祖より京水の養父錦橋に至つた。其間に生じた所の旁系は一々挙ぐることを要せない。しかし彼系図|水津《すゐづ》本と溝挾《みぞはさ》本との来歴を明にせむがために、此に水津溝挾両家の事を略記する。
生田氏の始祖頼宗の子が頼信で、頼信の子が頼氏である。頼氏の弟に信吉と云ふものがあつて、水津重時の家を継《つ》いだ。生田氏の支流に水津氏あることは此に始まる。降つて嵩山正直の父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた。次に正直の弟を杏朴成俊《きやうぼくなりとし》と云ひ、これが信道五世の孫|光《ひかる》の養子となつて水津氏に復《かへ》り、成俊の子に成豊《なりとよ》、正俊があつて、兄成豊は水津氏を継ぎ、弟正俊が又養はれて嵩山の子となつたのである。成豊の孫を水津官蔵と云ふ。系図水津本を有してゐたのは此官蔵の女《ぢよ》である。是が旁系水津氏である。
次に溝挾氏は嵩山正直の妹、成俊の姉が往いて嫁した。是は京水本の記する所である。これに反して溝挾本に従へば、此女は正直の妹にあらずして成俊の子成豊の妹である。此女の所出が溝挾氏を嗣いでゐる。是は旁系溝挾氏である。
わたくしは此より京水自筆の巻物に拠つて、初代瑞仙の事蹟を覆検する。しかし巻物の収むる所の錦橋瑞仙寛政庚申の書上《かきあげ》は、極て杜撰なる文書である。わたくしは曾て再び京水を語つた時、錦橋の養子二世瑞仙|直卿《ちよくけい》の実子三世瑞仙|直温《ちよくをん》の先祖書を引き、此先祖書中錦橋の条は錦橋自己の書上を用ゐたものであらうと云つた。わたくしの此推定は誤らなかつた。しかし錦橋書上と直温先祖書の錦橋の条とは、広略《くわうりやく》大に相異なつてゐる。そして錦橋書上は其文|愈《いよ/\》長うして其矛盾の痕は愈|著《いちじる》しい。直温は祖父書上の矛盾の大なるものを刪《けづ》り去つたと謂ふも可なる程である。然るに京水は別に養父錦橋の文を校訂すべき材料を有せなかつたと見えて、其矛盾の所はこれに評註を加へたに過ぎない。
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