》く「享和之二二月」と読んで置く。
 秋に入つて七月十五日に、蘭軒は渡辺|東河《とうか》、清水|泊民《はくみん》、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、赤尾|魚来《ぎよらい》の四人と、墨田川で舟遊をした。蘭軒に七絶四首があつたが、集に載せない。只其題が蘭軒雑記に見えてゐるのみである。東河、名は彭《はう》、字《あざな》は文平、一号は払石《ふつせき》である。書を源《げん》東江に学んだ。泊民名は逸、碩翁と号した。亦書を善くした。魚来は未だ考へない。
 享和三年には蘭軒が二月二日に吉田仲禎狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎と石浜村へ郊行した。仲禎、名は祥、通称は長達である。幕府の医官を勤めてゐた。次で十九日に又大久保五岳、島根近路、打越《うちごし》古琴と墨田川に遊んだ。五岳、名は忠宜《ちゆうぎ》、当時の菓子商|主水《もんど》である。近路古琴の二人の事は未だ考へない。此二遊は蘭軒雑記に「享和|閏《うるふ》正月」と記し、下《しも》三字を塗抹して「二月」と改めてある。享和中閏正月のあつたのは三年である。故に姑《しばら》く此に繋ける。墨田川の遊は、雑記に「甚俗興きはまれり」と註してある。
 此年七月二十八日に、蘭軒の父信階の養母大久保氏伊佐が歿した。戒名は寿山院湖月貞輝大姉である。「又分家」の先霊名録には寿山院が寿山室に作つてある。年は八十四であつた。
 蘭軒雑記に拠れば、所謂《いはゆる》浅草太郎稲荷の流行は此七月の頃始て盛になつたさうである。社の在る所は浅草田圃で、立花左近将監|鑑寿《あきひさ》の中屋敷であつた。大田南畝が当時奥祐筆所詰を勤めてゐた屋代輪池を、神田明神下の宅に訪うて一聯を題し、「屋代太郎非太郎社、立花左近疑左近橘」と云つたのは此時である。

     その二十三

 此年享和三年十月七日に、蘭軒が渡辺東河を訪うて、始て伴粲堂《ばんさんだう》に会つたことが、蘭軒雑記に見えてゐる。粲堂、通称は平蔵である。煎茶を嗜《たし》み、篆刻《てんこく》を善くした。此日十月七日は西北に鳴動を聞き、夜灰が降つたと雑記に註してある。試に武江年表を閲《けみ》するに降灰《かうくわい》の事を載せない。
 蘭軒の結婚は家乗に其年月を載せぬが、遅くも此年でなくてはならない。それは翌年文化元年の八月には長男|榛軒《しんけん》が生れたからである。蘭軒には榛軒に先《さきだ》つ
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