》より索《もと》め出さうとするのである。
書牘は此年壬辰閏十一月二十五日に作られたものである。即ち山陽歿後第九十一日である。里恵はこれを赤間関《あかまがせき》の秋水広江※[#「金+庸」、第3水準1−93−36]《しうすゐひろえよう》と其妻とに寄せた。
わたくしは今全文を此に引くことをなさない。何故と云ふに、屠赤瑣々録は広く世に行はれてゐる書で、何人も容易に検することが出来るからである。此には山陽終焉の記を抄するに止める。そして原文の誤字、仮名違の如きは、特に訂正して読み易きに従はしめる。是は文書の真形を伝へむがために写すのでなく、既に世に行はれてゐる文書の内容を検せむがために引くのだからである。
その二百六
「一筆申上為参候。(中略。)扨|久太郎《ひさたらう》事此六月十二日よりふと大病に取あひ、誠にはじめは、ちも誠に少々にて候へども、新宮《しんぐう》にもけしからぬむづかしく申候。久太郎もかくごを致し、私どもにもつね/″\申して、ゆゐごんも其節より申おかれて候やうな事にて、かくても何分と申、くすりをすゝめ、先々天だう次第と自分も申ゐられ候。六月十三日より、かねて一両年心がけのちよじゆつども、いまださうかうまゝにて、夫《それ》を塾中にせき五郎子ゐられ、一人にまかせ候てかかせ、又自身がなほし候てうつさせ、日本せいきと申物に候、又なほし、其間に詩文又だいばつ、みなみなはんになり候やうに、さつぱりとしらべ申候。右せきも九月廿三日迄、ばつ文迄出来上り候。廿三日夕七つ前迄、五郎子かゝりうつし候、夫を又見申候て安心いたし、半時たゝぬ内ふし被申候所、私むねをさすり居候。うしろにゐるは五郎かと申、もはや夫きりにて候。くれ六つどきに候。」
是が頼山陽の病初より死に至るまでの事実である。終始病牀に侍してゐた小石氏里恵は此の如くに観察したのである。
山陽は此年壬辰六月十二日に始て喀血し、翌十三日より著述を整理することに著手し、関五郎をして専《もつぱら》これに任ぜしめ、九月二十三日申刻に至つて功を竣《を》へた。その主として力を費したものは日本政記で、旁《かたはら》詩文題跋に及んだ。関五郎は稿本を師の前に堆積した。山陽はこれを見て心を安んじ、未だ半時ならぬに横臥した。里恵は其胸を撫でてゐた。山陽は里恵に、「背後《うしろ》にゐるのは五郎か」と云つた。そして死んだ。時に酉刻であ
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