つた。
試に江木鰐水の行状を出して再読するに、わたくしは二者の間に甚だしき牴牾《ていご》あるを見ない。鰐水の「且勿喧、我将仮寐」は里恵の「ふし被申候」と符合する。惟《たゞ》鰐水は「著眼鏡」と云ひ、「不脱眼鏡」と云ひ、又「閣筆」と云つて、多く具象的文字を用ゐた。里恵の聞いて実に非ずとなすものは、或は其間に存したのではなからうか。
それは兎まれ角まれ、今根本史料たる価値を問ふときは、里恵の書牘は鰐水の行状の上にある。後の山陽の死を叙するものは、鰐水を捨てて里恵を取らなくてはならない。山陽の最後の語は「且勿喧、我将仮寐」ではなくて、「背後にゐるのは五郎か」であつた。
わたくしの次に一|言《げん》せんと欲するは、此五郎の事である。山陽が死に瀕して名を喚《よ》んだ此五郎の事である。鍔水は師の終焉を目撃した人として石川|君達《くんたつ》を指斥《しせき》し、其リワルたる森田節斎は里恵と牧信侯《まきしんこう》とを指斥した。近時山陽のために伝を立てた諸家の云ふを聞くに、五郎は即石川君達で、石川君達は即後の関藤藤陰《せきとうとういん》ださうである。果して然らば、わたくしの未だ聞知せざる牧の観察|奈何《いかん》は姑《しばら》く措き、鰐水は五郎の言《こと》を伝へたもので、鰐水自己は只修辞の責を負ふべきに過ぎない。
わたくしの今問題とする所は此五郎である。
その二百七
頼山陽の病んで将《まさ》に死せむとする時、関五郎と云ふものがあつて其|傍《かたはら》を離れず、山陽最後の著述日本政記の如きは、此人が専らこれが整理に任じたことは、未亡人小石氏里恵の書牘に詳《つまびらか》である。
山陽が遂に此年壬辰九月二十三日夕酉刻に歿し、越えて二十五日に綾小路千本通西へ入南側の光林寺に葬られた時の行列には、棺の左脇が菅《すが》三郎、右脇が此関五郎であつた。菅は菅茶山の養嗣子|菅《くわん》三|維繩《ゐじよう》である。さて棺の背後を右継嗣又二郎|復《ふく》、左其弟三木三郎|醇《じゆん》が並んで歩いた。次が天野俊平、次が広島頼宗家の継嗣|余《よ》一|元協《げんけふ》代末森三輔であつた。光林寺に於ける焼香の順序は第一復、第二醇、第三元協代末森、第四お陽代菅三、第五未亡人里恵代関五郎であつた。其詳なるは木崎好尚さんの書に譲つて略する。
山陽の歿後暫時の間、此関五郎は未亡人里恵と幼い嗣子復とに
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