卿不快如何。」榛軒と同庚なる懐之少卿《くわいしせうけい》が二十七歳、俊が二十一歳の時である。
二十八日の柏軒の書は俊の「快方に赴」いたことを報じてゐる。
十二月十日の榛軒の書には福山の人物評がある。中に学殖あるものは「鈴木|宜山《ぎざん》、三箇角兵衛《さんがかくべゑ》を推す」と云つてある。宜山と並称せられた角兵衛とはいかなる人か。浜野氏に請うて看ることを得た由緒書に拠れば、角兵衛、初め津之助と称す、名は知雄《ともを》、頼雄《よりを》の孫、時朗《ときあきら》の子で、印西《いんせい》流弓術を以て阿部家に仕へ、此年六十九歳になつてゐた。只異とすべきは、角兵衛に文事があつたことが毫も聞えてゐぬのである。榛軒の書には又「周迪《しうてき》は学を以て勝れるものにあらず」と云つてある。周迪は馬屋原成美《まいばらせいび》である。当時宜山は儒者奥詰、角兵衛は使番格、周迪は奥医師であつた。書中に又「尾道に順迪《じゆんてき》の墓を※[#「酉+將のつくり」、第4水準2−90−37]《らい》す」と云ふことがある。順迪とは誰であらうか。
以上書し畢つた時、浜野氏の報に接した。福田氏所蔵の「福山風雅集稿本」の詩人姓名の部に、「三箇知雄、字子光、号箕洲、俗称角兵衛」と云つてある。此稿本は江木鰐水《えぎがくすゐ》の手より出でたものだと云ふ。
二十三日の榛軒の書には「狩谷おたか大病の由いかが」と云つてある。前月二十八日の柏軒の書が未だ達せなかつたと見える。書中問安が門田《もんでん》朴斎に及んでゐる。
頼氏では此春|杏坪《きやうへい》が邑宰《いふさい》を辞して三次《みよし》を去つた。年は七十五である。「何同老萼黏枝死。好趁乳鳩呼子帰。」杏坪の子は采真舜※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65]《さいしんしゆんたう》である。
此年榛軒二十七歳、柏軒二十一歳、長十七歳であつた。蘭軒の姉正宗院は六十歳になつた。榛軒の妻勇の齢《よはひ》は不詳である。
その百九十九
天保二年は蘭軒歿後第二年である。榛軒は猶福山にあつて歳を迎へた。荏薇《じんび》問答に元旦に弟柏軒に与へた書がある。「狩谷お高快方之由大慶」の語がある。前年十一月二十八日の弟の書を得て、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の女《ぢよ》の病の※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えたことを知つたので
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