を見ても、柏軒の機智のあることが知られる。雪堂の誰なるかは未だ考へない。黒沢雪堂は六年前文政七年に六十八歳で歿してゐるから、その別人なること勿論である。或は清水|浜臣《はまおみ》門の堀内雪堂ではなからうか。柏軒は国学者に交つて歌を詠んだ人である。

     その百九十八

 荏薇《じんび》問答は此年天保元年十一月に入つて、先づ六日の榛軒の書を載せてゐる。阿部|正寧《まさやす》の福山城に入る前日の書である。書中人の目を惹くものは唯二件あるのみである。其一は榛軒の妹長の病で、榛軒は「治療を清川に託せよ」と云つてゐる。長が荏苒《じんぜん》として愈《い》えなかつたことと、榛軒が清川玄道の技倆に信頼してゐたこととが知られる。其二は七世市川団十郎の評判で、榛軒は「三升の評判好きことを養竹に伝へよ」と云つてゐる。按ずるに所謂評判は団十郎去後の評判でなくてはならない。何故と云ふに庚寅の歳には、団十郎は早く大坂を立つて、京都、古市を経て、八月中に江戸に還つてゐたからである。しかし劇の沿革も亦わたくしの詳《つまびらか》にせざる所であるから、若し誤があつたら、其道に精《くは》しい人の教を乞ひたい。
 七日には正寧が福山城に入つた。此日の榛軒の書は親戚故旧の名を列記して、柏軒に「致声《ちせい》」を嘱したに過ぎない。
 十四日の榛軒の書には、書を作るに臨んで眼前の景を叙したと云ふ詩がある。「山城寂々五更初。愁緒千条不展舒。月苦風寒狐叫処。青燈火下写家書。」柏軒をして問安せしめた二十余人の中に、「小島|学古《がくこ》」がある。
 十九日には江戸で柏軒が劇を看て、これを兄に報じた。「木挽町の芝居見物、三升の暫なり」と云つてある。同行者は「渋江夫婦、小野親子、多多羅、有馬、てる、なべ町娘《ちやうむすめ》」と記してある。渋江抽斎の挈《たづさ》へて往つた妻は比良野氏|威能《ゐの》で、前年己丑に帰《とつ》いで、次年辛卯には死ぬる女である。小野親子は令図《れいと》富穀《ふこく》であらう。多多羅は辨夫《べんふ》、有馬は宗緩《そうくわん》であらう。二人の女の誰なるを知らない。
 二十四日には柏軒が兄に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の女《ぢよ》俊《しゆん》の病を、「容態宜からず」と報じてゐる。
 二十六日に榛軒が弟に与ふる書は、未だ俊の病を知らざるものゝ如く、却つて其兄の病を問うてゐる。「少
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