ある。榛軒は阿部|正寧《まさやす》の参勤の日割を記してゐる。「二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定」と云ふのである。
次に十二日の榛軒の書がある。「岡西婚儀相済候趣欣賀す」の文がある。妻を迎へたのは岡西玄亭で、此|女《をんな》が玄庵、養玄を生んだのであらう。養玄は後に伊沢氏梅を娶《めと》つて一女初を挙げ、梅を去つて再び後藤氏いつを娶り、今の俊太郎さんと風間篤次郎さんとを生ませた。養玄の後の称が即ち岡寛斎であつた。
二月六日に榛軒が正寧の駕に扈従して福山を発したことは記載を闕いてゐる。十二日には既に大坂に著して書を作つてゐる。
此月下旬の江戸著の日も亦伊沢分家の文書中に見えない。
頼氏では、山陽の長子で春水の後を襲いだ聿庵協《いつあんけふ》が江戸霞関の藩邸に来てゐた。山陽除夕の詩に、「故園鶴髪又加年、鴨水霞関並各天、三処相思汝尤遠、寒燈応独不成眠」と云つてゐる。梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》は広島にあつて将《まさ》に七十三の春を迎へんとし、山陽は京都、聿庵は江戸と、三人「三処」に分れてゐたのである。門田朴斎の集にも、此年「訪頼承緒霞関僑居路上」の詩がある。
是年榛軒二十八、柏軒二十二、長十八になつた。蘭軒の姉正宗院は六十一であつた。榛軒の妻勇の年を知らない。
天保三年は蘭軒歿後第三年である。三月六日に柏軒が始て松崎|慊堂《かうだう》を見た。わたくしは上《かみ》に文政辛巳の条に、榛軒が慊堂、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に学び、柏軒が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に学んだ事を言つた。今柏軒は其師※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に従つて、渋江抽斎と共に兄の師慊堂を羽沢《はねざは》に訪うたのである。わたくしは此に柏軒の日記を抄出する。日記は此月三日より十八日に至る十六日間の事を録したもので、良子刀自の蔵する所に係る。
「天保三年壬辰三月六日。随※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎先生。与抽斎兄同至羽根沢。見慊堂先生。其居在長谷寺之南十町許。下阜径田。又上高阜。而深林之中。即其隠居之処也。在前丘之上望之。与其居相対。茅茨七八椽。有小楼。上室者先生之斎。前園有方池。命于童子易水。下室者門生之塾。読誦之声朗々。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎先生贈雁。信重贈酒。抽斎亦同。飲酒談
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