にして人あつて古版|首行《しゆぎやう》の「太平聖恵方」の五字を削り去り、単行本として市《いち》に上《のぼ》せた。故に首行の上《かみ》に空白を存じてゐる。此の変改せられた北宋|槧本《ざんほん》が躋寿館に一部、伊沢氏の酌源堂に一部あつた。彼は「長門光永寺」の墨印があり、此は「吉氏家蔵」の印があつた。経籍訪古志に「酌源堂亦蔵此本、紙墨頗精」と云つてあるのが即後者で、榛軒の詩中に斥《さ》す所である。今其所在を知らない。
詩存には此春の詩が猶十八首あつて、就中《なかんづく》五首は阿部侯|正寧《まさやす》に次韻したもの、五首は賜題の作である。榛軒が正寧に侍して詩を賦したのは、蘭軒が正精《まさきよ》に侍して詩を賦したと相似てゐる。
此年十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた。前年来江戸に来て、丸山邸に住んでゐる門田《もんでん》朴斎は「白蛇峰歌」を作つてこれを送つた。「白蛇峰上白雲多。峰前是我曾棲処。黍山最高只此峰。勧君吟屐穿雲去。北望雲州与伯州。独有角盤相対※[#「にんべん+牟」、第3水準1−14−22]。臨風絶叫称絶勝。未輸五岳名山遊。吾兄在彼諳山蹊。恰好前導攀丹梯。別後思君復思兄。白雲満山夢不迷。」朴斎は兄|富卿《ふけい》を前導者として榛軒に推薦したのである。
福山へ立つた兄榛軒と、江戸に留まつた弟柏軒との間に取り替された書牘は、集めて一巻となし、「荏薇問答」と題してある。荏土《えど》と黄薇《きび》との間に取り替されたからであらう。わたくしは此書を徳《めぐむ》さんに借りて、多少の価値ありと認むべき数条を抄出する。
榛軒は十月十六日の暁に江戸を発した。同行した僚友は雨富良碩《あまとみりやうせき》、津山|宗伯《そうはく》であつた。留守は柏軒で、塩田|楊庵《やうあん》、当時の称小林|玄瑞《げんずゐ》が嘱を受けて其相談相手になつた。
榛軒が去つた直後に、留守宅に傷寒論輪講の発会があつた。来会者は各《おの/\》数行の文を書して榛軒に寄せた。合作の柬牘《かんどく》である。会日は十月二十日であつた。
首《はじめ》に柏軒が書した。「磐安《はんあん》曰。集まりし人より伝言左の如し。尤《もつとも》各自筆なり。」
次に渋江抽斎が書した。「道純敬啓。御出立の砌は参上、得拝眉、大慶不過之候。御清寧、御道中種々珍事可有之、奉恭羨候。廿日より傷寒論講釈相始候処、諸君奇講甚面白し。輪
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