作御一笑可被下候。」
「扨おとらへよき物被下忝奉存候。然所流行|痢疾《りしつ》にて八月三日相果候。(廿八日よりわづらひ付候は夜四つ時、死候は朝五つ時、其間三日|計《ばかり》也。)お敬はじめ哀傷御憐察可被下候。」
「玄間学屈原候こといかなるわけに候哉。国に居候時も阿堵《あと》に不埒多きをのこ、定而《さだめて》其事なるべし。しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ、仙台か金沢へゆくもよかるべきに、可惜ことに候。」
「梧堂金輪時々おもひ出候。和尚に御逢被成候はば、宜御申可被下候、草々。晋帥拝白。」
その百五十八
わたくしの引いた所の菅茶山の書牘が、此年文政七年八月十七日の後少くも十数日を経て作られたと云ふことは、蘭軒等が北条霞亭の忌辰に当つて、其墓に詣でたのが、既に茶山に知られてゐるを以て証することが出来る。蘭軒と同じく墓を訪うた柴山《しばやま》は、嘗て蘭軒の集に見え、又狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の元応音義《げんおうおんぎ》の跋に見えてゐる柴担人《さいたんじん》ではなからうか。蘭軒は又柴山謙斎と云ふものの家に往つて詩を賦したことがある。謙斎と担人とは同人か異人か。此には暫く疑を存して置く。
わたくしは書牘の月日を推定せむがために、既に「霞亭一周忌」云々の段を挙げて、今|直《たゞち》にこれに接するに新に亡くなつた女児の事を以てする。是は甲申中秋の月が照すに及ばなかつた黄葉村舎牀頭の小珠《せうじゆ》の何物なるかを究めむがためである。
女児は名を「おとら」と云つたらしい。文中此仮名の三字は頗る読み難い。わたくしは字画をたどつて「おとら」と読んだ。しかし「おとう」とも「おこう」とも読まれぬことは無い。
蘭軒はおとらに物を贈つた。然るに物の到つた時、おとらは既に死んでゐた。七月二十八日亥の刻に流行性痢疾の徴を見、八月三日辰の刻に死んだのである。甲申の七月は小であつたから、発病より死に至るまでは陰暦の五十一時間である。茶山は約して「其間三日許に候」と云つてゐる。
おとらが死んでから第十三日が八月|既望《きばう》である。「十五夜」の詩の註には「半月前喪姪孫女」と云つてある。牀頭の小珠が此おとらであることは固より疑を容れない。
然らばおとらは誰の子か。姪孫女《てつそんぢよ》とは茶山の同胞の子の娘か、将《はた》茶山の同胞の孫の女《むすめ》か。わ
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