は填《うづ》むべからざる空隙がある。
わたくしは霞亭に関する記載の頗《すこぶる》不完全なるを自知しながら、忍んで此に筆を絶たなくてはならない。何故かと云ふに、癸酉以後の事蹟には、前《さき》に一巻の帰省詩嚢、一篇の嚢里移居詩《なうりいきよし》を借り来つて、菅茶山の書牘に註脚を加へた後、今に至るまで何の得る所も無いからである。わたくしは最後に「薇山三観」の事を補記して置く。これも亦浜野氏の借覧を許した書の一である。
霞亭は黄薇《くわうび》に入つた後に、三原に梅を観、山南《さんな》に漁《すなどり》を観、竹田に螢を観た。これが所謂三観である。
梅の詩は末に「右甲戌初春」と書してある。文化十一年正月で、備後に来てからの第二年である。
漁は鯛網である。其詩の末には「右丙子初夏」と書してある。螢の詩の末には「右丙子仲夏」と書してある。備後に来てからの第四年、文化十三年四月及五月である。彼詩嚢を齎した帰省の「出門」を七月であつたとすると、的屋の遊は踵《くびす》を竹田の遊に接してゐる。
わたくしが霞亭に関する以上の事を記したのは、蘭軒を伝して文政六年に至り、其年十一月二十三日に茶山の蘭軒に与へた書を引いたから起つたのである。当時霞亭は既に江戸|嚢里《なうり》の家に歿してより九十五日を経てゐた。妻井上氏|敬《きやう》は神辺《かんなべ》に帰る旅が殆ど果てて、「帰宅明日にあり」と云ふことになつてゐた。
茶山の書牘には、敬とこれに随従してゐた足軽との外、猶二人の名が出てゐる。其一は鵜川某である。「鵜川段々世話いたしくれられ候由、此事御申伝尚御たのみ可被下奉願上候。」鵜川は子醇《しじゆん》であらう。事は北条氏の不幸に連繋してゐる。
其二は牧唯助《まきたゞすけ》である。「むかしの臼杵直卿也」と註してある。五山堂詩話の牧|古愚《こぐ》字《あざな》は直卿《ちよくけい》、号は黙庵が、茶山集の臼杵直卿《うすきちよくけい》と同人であつたことが、此文に由つて証せられる。茶山の言ふ所は霞亭一家の事には与《あづか》らない。
牧は当時江戸にゐた。松平冠山が何事をか茶山に託したので、茶山はこれを牧に伝へた。然るに「うんともすんとも返事無之候」であつた。茶山は蘭軒をして牧に催促せしめようとしたのである。冠山は因幡国鳥取の城主松平氏の支封松平|縫殿頭《ぬひのかみ》定常で、実は池田筑前守政重の弟である。そ
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