軒、子文の四人である。子文は茶山集、驥※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《きばう》日記等にも見えてゐる人である。
わたくしは此に凹巷の記に依つて、霞亭参加後の游蹤《いうしよう》を追尋する。但原文には中間に一日づつの誤算がある。わたくしはこれを正して下《しも》に註して置く。
癸酉二月「廿四日発関駅。適雨至。宿于鹿伏兎。是夜雨甚。有叩門呼余(凹巷)名者。問之山内子亨也。」此より山内子亨《やまのうちしかう》が一行に加はつて五人になつた。
「廿五日宿于上野。」
「翌朝(二十六日)大雪。過青石嶺。宿于笠置。」
「廿七日登笠置山。下木津川。宿于郡山。」
「(二十八日)発郡山。到法隆寺。宿当麻寺前民家。」
「(二十九日)訪尼松珠于当麻寺中紫雲庵。登畝旁山。到岡寺。」
「廿九日(晦)発岡寺客舎。従桜井駅上談峰。大雨。投山店。」
「卅日(三月朔)宿于越部。」
「三月朔(二日)発越部。度芳野川下流。到賀名生。訪堀孫太郎宅。宿其家。」
「二日(三日)発賀名生。投芳野客舎。」
「翌日上巳(四日)値雨。遊桜本坊竹林院。」
「四日(五日)衝雨尋諸勝。晩観宮滝。」
「五日(六日)過蔵王堂。是日宿雨初晴。花開七分。」
「七日発六田。霞亭還洛。子亨従送之。」此より霞亭は山内子亨を伴つて京の歳寒堂に帰つたのである。凹巷等は此日|赤埴《あかばね》に宿し、八日|杉平《すぎたひら》に宿し、九日|鶴宿《つるじゆく》に宿し、十日に凹巷の桜葉館《あうえふくわん》に著した。主人は河崎、佐藤の二人を座に延いた。「故園吾館迎還好。桜葉陰濃緑満扉。」
その百五十
わたくしは浜野氏の蔵書二三種を借り得て、其中に就いて北条霞亭の履歴を求め、年を逐うてこれを記し、遂に文化十年癸酉、霞亭三十四歳の時に至つた。霞亭は此年の三月七日に吉野の遊より帰つて六田《むた》に至り、伊勢の諸友と袂を分かつた。
然るに此三月七日より後には、年の暮るゝに至るまで、一事の月日《げつじつ》を詳《つまびらか》にすべきものだに無い。霞亭が京都を去つて備後に赴いたのは、其生涯の大事である。そして此の如き大事が、わたくしのためには猶月日不詳の暗黒裏に埋没せられてゐるのである。わたくしは唯山陽の「歳癸酉、遊備後」の語を知つてゐる。強ひて時間を限劃《げんくわく》しようとしても、三月七日の後、十二月|晦《みそか》の前に
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