、文義は乃ち通ずるのである。
わたくしの此手紙を読んだ始は「家庭の頼山陽」が出た時であつた。即ち明治三十八年であつた。それから八年の後、大正二年に箕山《きざん》さんの「頼山陽」が出た。同じ手紙が載せてあつて、旧に依つて「左様の義も出来不申かと存候」としてある。箕山さんは果して原本を見たのであらうか。若しさうだとすると、誤写も誤植もありやうがなくなる。原本の字体が不明で、誰が見ても誤り読むのであらうか。しかし此《かく》の如くに云ふのは、誤謬があると認めた上の事である。誤謬は初より無いかも知れない。そしてわたくしが誤解してゐるのかも知れない。
追記の文意の合理不合理の問題は上《かみ》の如くである。しかしわたくしの此追記に就いて言はむと欲する所は別に有る。わたくしは試に問ひたい。追記に所謂「昌平辺先生」とは抑《そも/\》誰を斥《さ》して言つたものであらうかと問ひたい。
姑《しばら》く前人の断定した如くに、山陽は江戸にある間、始終聖堂の尾藤の家にゐたとする。そして尾藤の家から広島へ立つたとする。さうすると此手紙も尾藤の家にあつて書いたものとしなくてはなるまい。そこで前人の意中を忖度《そんたく》するに、下《しも》の如くであらう。昌平辺先生とは昌平黌の祭酒博士を謂ふ。即ち林《りん》祭酒述斎を始として、柴野栗山、古賀精里等の諸博士である。その二洲でないことは明である。二洲の家にあるものが、ことさらに二洲を訪ふべきでは無いからである。前人の意中はかうであらう。
独りわたくしの思索は敢て別路を行く。山陽が江戸にあつた時、初め二洲の家にゐたことは世の云ふ所の如くであらう。しかし後には二洲の家にはゐなかつたらしい。少くも此手紙は二洲の家にあつて書いたものではなささうである。「昌平辺」の三字は、昌平黌の構内にゐて書くには、いかにも似附かはしくない文字である。外にあつて昌平黌と云ふ所を斥《さ》すべき文字である。
わたくしは敢てかう云ふ想像をさへして見る。「昌平辺先生」は、とりもなほさず二洲ではなからうかと云ふ想像である。二洲は瓜葛《くわかつ》の親とは、思軒以来の套語であるが、縦《よ》しや山陽は一時の不平のために其家を去つたとしても、全く母の妹の家と絶つたのでないことは言を須《ま》たない。しかし少くも山陽は些《ちと》のブウドリイを作《な》して不沙汰をしてゐたのではなからうか。すねて往
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