藤塾にあらずとする証拠になりはせぬかと思ふ。しかし文書を読むことは容易では無い。比較的に近き寛政中の文と雖亦然りである。文書を読むに慣れぬしろうとのわたくしであるから、錯《あやま》り読み錯り解するかも知れぬが、若しそんな事があつたら、識者の是正を仰ぎたい。
 手紙の原本はわたくしの曾《かつ》て見ぬ所である。わたくしの始て此手紙を読んだのは、木崎好尚《きざきかうしやう》さんがその著す所の「家庭の頼山陽」を贈つてくれた時である。此手紙の末《すゑ》に下《しも》の如き追記がある。「猶々昌平辺先生へも一日参上仕候而御暇乞等をも可申上存居申候、何分加藤先生御著の上も十日ほども可有之由に御坐候故、左様の儀も出来不申かと存候、以上」と云ふのである。加藤先生とは加藤|定斎《ていさい》である。定斎は寛政十年三月廿二日に江戸に入る筈で、山陽は其前夜に此書を裁した。十日程もこれあるべしとは、山陽が猶江戸に淹留《えんりう》すべき期日であらう。寛政十年の三月は陰暦の大であつたから、山陽は四月三日頃に江戸を立つべき予定をしてゐたのである。山陽の発程は此予定より早くなつたか遅くなつたかわからない。山陽の江戸を発した日は記載せられてをらぬからである。
 わたくしのしろうと考を以てするに、先づ此追記には誤謬があるらしく見える。誤読か誤写か、乃至排印に当つての誤植か知らぬが、兎に角誤謬があるらしく見える。わたくしは此の如く思ふが故に、手紙の原本を見ざるを憾む。元来わたくしの所謂《いはゆる》誤謬は余りあからさまに露呈してゐて、人の心附かぬ筈は無い。然るに何故に人が疑を其間に挾《さしはさ》まぬであらうか。わたくしは頗るこれを怪む。そして却つて自己のしろうと考にヂスクレヂイを与へたくさへなるのである。

     その十六

 寛政十年三月二十一日の夜、山陽が父春水に寄せた書の追記は、口語体に訳するときはかうなる。「昌平辺の先生の所へも一度往つて暇乞を言はうと思つてゐる、何にせよ加藤先生が著いてからも十日程はあるだらうと云ふことだから、そんな事も出来ぬかと思ふ」となる。何と云ふ不合理な句であらう。暇がありさうだから往かれまいと云ふのは不合理ではなからうか。これはどうしても暇がありさうだから往かれようとなくてはならない。原文は「左様の義も出来可申かと存候」とあるべきではなからうか。只「不」を改めて「可」とすれば
前へ 次へ
全567ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング