かずにゐたのではなからうか。そして「江戸を立つまでには暇がありさうだから、例の昌平辺の先生の所へも往かれよう」と云つたのではなからうか。これは山陽が二洲の家を去つたことは、広島へも聞えずにゐなかつたものと仮定して言ふのである。
その十七
わたくしは寛政九年四月中旬以後に、月日は確に知ることが出来ぬが、山陽が伊沢の家に投じたものと見たい。蘭軒が頼氏の人々並に菅茶山と極て親しく交つたことは、後に挙ぐる如く確拠があるが、山陽の父春水と比べても、茶山と比べても、蘭軒はこれを友とするに余り年が少過《わかす》ぎる。寛政九年には春水五十二、茶山五十で、蘭軒は僅に二十一である。わたくしは初め春水、茶山等は蘭軒の父|隆升軒信階《りゆうしようけんのぶしな》の友ではなからうかと疑つた。信階は此年五十四歳で、春水より長ずること二歳、茶山より長ずること四歳だからである。しかし信階が此人々と交つた形迹は絶無である。それゆゑ山陽の来り投じたのは、当主信階をたよつて来たのではなく、嫡子蘭軒をたよつて来たのだと見るより外無くなるのである。此年二十一歳の蘭軒は、十八歳の山陽に較べて、三つの年上である。
わたくしは蘭軒が初め奈何《いかに》して頼菅二氏に交《まじはり》を納《い》れたかを詳《つまびらか》にすること能はざるを憾《うらみ》とする。わたくしは現に未整理の材料をも有してゐるが、今の知る所を以てすれば、蘭軒が春水と始て相見たのは、後に蘭軒が広島に往つた時である。又茶山と交通した最も古いダアトは、文化元年の春茶山が小川町の阿部邸に病臥してゐた時、蘭軒が菜の花を贈つた事である。わたくしは今これより古い事実を捜してゐる。若し幸にしてこれを獲たならば、山陽が来り投じた時の事情をも、稍《やゝ》細《こまか》に推測することが出来るであらう。
山陽は伊沢に来て、病源候論を写す手伝をさせられたさうである。果して山陽の幾頁《いくけつ》をか手写した病源候論が、何処かに存在してゐるかも知れぬとすると、それは世の書籍を骨董視する人々の朶頤《だい》すべき珍羞《ちんしう》であらう。
病源候論が伊沢氏で書写せられた顛末は明で無い。又其写本の行方も明で無い。素《もと》わたくしは支那の古医書の事には※[#「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]《くら》いが、此に些《ちと》の註脚を
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