況。十書一面非可比。我去君来如相避。秋鴻春燕巧参差。」阿武は阿武隈川である。
茶山の詩は往迹《わうせき》を説き畢《をは》つて現状に入つた。此年壬午の状況に入つた。「近聞朝旨新賜環。箪壺争迎旧君帰。巨鎮懸海拠要衝。近接蝦夷遠赤夷。非是故封恩信洽。北門鎖鑰守者誰。万人歓喜独我恨。我恨音信更応稀。」環を賜ふは荀子の「絶人以※[#「王+夬」、第3水準1−87−87]、反絶以環」を用ゐたもので、松前家が一たび松前の封を失つて、又これを復したことを謂ふ。幕府が章広に蝦夷の地を還付したのは前年辛巳の十二月七日であつた。
頼氏では此年山陽が三本木の水西荘に遷つた。「棲息有如此。足以※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]素情。」聿庵元協《いつあんげんけふ》が寺川氏を娶つた。
此年蘭軒は四十六歳、妻益四十歳、子女は榛軒十九、常三郎十八、長九つ、順三つであつた。
文政六年は蘭軒の家に於て平穏に迎へられた。「癸未元日。忘老抃忻復値春。城烟山靄自清新。纔因椒酒成微酔。蘇得三冬凍縮身。」茶山は此「元日」に神辺一|郷《がう》の最長者となつたのださうである。「鶴髪※[#「白+番」、7巻−262−下−11]々映羽觴。屠蘇憶昨最先嘗。酔聞童子談耆旧。驚殺吾齢長一郷。」
「豆日草堂小集」は雪後《せつご》であつた。「雪融烟淡鳥相呼」の句がある。
二十二日に蘭軒は元板千金方の跋を書した。署して「文政癸未孟春廿二日伊沢信恬識」と云つてある。跋の後に更に数行の識語を著けて、「信恬又識」と再署してある。
千金方は、上《かみ》の医範の条に云つた如くに、唐の孫思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《そんしばく》の撰に係る。「思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]嘗謂。人命至重。貴於千金。一方済之。徳躋於此。故所著方書以千金名。」孫の遺す所の書は此千金方三十巻と脈経一巻とであつた。
然るに千金方の唐代の真を存してゐるものは、和気氏所伝の古抄本一巻があるのみである。即三十巻中の第一巻で、「処士孫思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]撰」と題してある。此本は後に躋寿館に帰し、蘭軒も亦別に一本を影写した。
次に三十巻全備の本に宋槧《そうざん》と元槧《げんざん》とがある。彼は北条顕時が求め得て金沢文庫に蔵してゐたもので、北宋所刊のものた
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