此詩は茶山と波響との交を知る好資料であつて、啻《たゞ》に甲子舟遊の発端を見るべきのみでなく、寛政より文政に至る間の二三聞人の聚散の蹤《あと》がこれに由つて明められる。
 京都の相国寺に維明《ゐめい》といふ僧がゐて、墨梅《ぼくばい》を画くことを善くした。名は周圭《しうけい》、字《あざな》は羽山と云つたのは此人である。茶山と波響とは始て維明が庵室に於て相見た。其席には僧|六如《りくによ》と大原|呑響《どんきやう》とが居合せた。「憶昔与君始相逢。維明道人読書槞。座有六如及呑響。主客並称詩画雄。」此会合は寛政五年であつたらしい。何故と云ふに、後に甲子の舟遊を叙するに及んで、茶山は「君道平安分手時、不期生前首重聚、十一年後忽此歓、安知他年不再晤」と云つてゐるからである。わたくしは草卒に推算したから誤があるかも知れぬが、当時六十三歳の主人維明の許で、四十六歳の茶山と二十四歳の波響とが相識になつたのである。
 甲子の歳に茶山は江戸に来て、柴野栗山の家で波響と再会した。それは雷雨の日であつた。「憶昔与君会東武。栗山堂上正雷雨。」次で二人は又犬冢印南の家で落ち合つた。そして舟遊の計画が此に胚胎したのである。

     その百三十一

 わたくしは菅茶山の此年文政五年に蠣崎波響に贈つた詩に拠つて、蘭軒等の甲子舟遊の端緒を究めようとした。詩の云ふ所はかうである。茶山は甲子の歳に江戸に来て、波響と一たび柴野栗山の家に会し、再び犬冢印南の家に会した。犬冢の家で二人は夜の更けるまで昔語《むかしがたり》をして、さて主人と三人川開の日に墨田川に舟を泛べて遊ぶことを約した。蘭軒は誘はれてこれに加はつたのである。「更集冢翁木王園。夜半忘帰泣道故。坐上刻日謀舟遊。新旧相結尽仙侶。泝到綾瀬出塵囂。叢葦覆岸烟生午。沿下柳橋入笙歌。万燈映波夜無暑。」わたくしは嘗て当時茶山の詩が烟火戯《えんくわき》を言はぬことに注目したが、此詩を作るに至つても、茶山は尚飽くまでこれを言ふことを避けてゐる。
 甲戌の歳に茶山が再び江戸に来た時には、波響蠣崎将監の宗家の当主松前若狭守|章広《あきひろ》が陸奥国伊達郡梁川の城主になつてゐて、波響は章広に従つて梁川に往つてゐた。「憶昔東武再遊時。君従移封阿武※[#「さんずい+眉」、第3水準1−86−89]。両地比旧差為近。卸鞍先報我新来。阿武東武猶千里。君云相告何太遅。置郵時時説近
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