十月廿九日。伊沢辭安。」

     その百三十

 蘭軒の動向覚書に拠るに、其嫡子榛軒は此年文政五年十月二十九日に阿部侯正精の召状《めしぢやう》を受けた。そして翌十一月|朔《ついたち》に医官成田|玄琳《げんりん》に率ゐられて登庁した筈である。然るに榛軒は其日に何事を命ぜられたか、覚書に記載を闕いてゐる。
 按ずるに歴世略伝榛軒の部に、「文政四年七月二十八日備中守阿部正精公侍医」と記《しる》してある。しかし覚書に徴するに、辛巳七月二十八日は初謁の日である。或は榛軒は初謁と同時に任官したかも知れぬが、わたくしは辛巳の紀事に疑を存じて筆せずに置いた。そして窃に榛軒が辛巳七月二十八日に初謁し、壬午十一月朔に任官したのではないかと思つてゐる。
 十二月二十一日には蘭軒の季子柏軒が藩の子弟に素読を授け、且これをして復習せしめたと云ふを以て、阿部侯の賞を受けた。勤向覚書の文は下《しも》の如くである。「十二月廿一日次男盤安学問所え月に八九度出席五経之素読教遣、其上宅にて浚いたし遣候に付、金二百疋被成下候。」柏軒は時に年|甫《はじめ》て十三であつた。
 二十三日に蘭軒は例の如く医術申合会頭たる故を以て金を賜はつた。覚書の文は略する。
 冬の詩は集に載するもの凡《おほよそ》四首である。中に「病中偶成」の作がある。蘭軒の起居を知らむがために此に抄出する。「遊事久無問酔醒。兼旬臥病寂山※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]。更恐飲膳多成祟。欹枕時時検食経。」最後に「閑中書事」の五律二首がある。其前なるは尚枳園の書であるに、後なるは蘭軒の自筆に復《かへ》つてゐる。前者の三四は「壁挂唐碑幅、架蔵宋板書」である。病める蘭軒を慰むるものは、此|古搨本《こたふほん》古槧本《こざんほん》であつただらう。
 菅氏では此年茶山が七十五になつた。わたくしはその一|載間《さいかん》の詩を読んで、事の間接に蘭軒に関するものあるを見出した。それは文化甲子七月九日の墨田川|舟遊《ふなあそび》の記を補ふべき事である。
 舟遊には犬冢印南《いぬづかいんなん》と茶山との両先輩の下に、蠣崎波響《かきざきはきやう》、木村|文河《ぶんか》、釧雲泉《くしろうんせん》、今川槐庵及蘭軒が来り集つた。しかし誰が何時此遊を企てたか未詳であつた。然るに此遊の発端が茶山の「憶昔三章呈蠣崎公子」の詩中に詳叙せられてゐる。

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