。蘭軒の「草堂小集」には「梅発初蘇凍縮身」、「数曲鶯歌在翠※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]」等の句がある。茶山の「人日」は錯愕の語を作《な》してある。「無端玉暦入青春。宿雪終風未覚新。七種菜羮香迸案。計来今日已為人。」第四の韻脚は「限韻」の註を得て首肯せられる。更におもふに蘭軒の梅花鶯語は必ずしも実に拠らなかつたかも知れない。「花朝」の詩には、「閏年寒威奈難消、一半春光属寂寥」とも云つてあるからである。己卯には閏《じゆん》四月があつた。
 春の詩と夏の詩との間に、「奉寿養安院曲直瀬先生七十、代山本恭庭」の七絶がある。武鑑を検すれば、奥医師に「養安院法印、千九百石、きじはし通小川町」があり、奥詰医師に「曲直瀬正隆、父養安院、二十人扶持、きじはし通」がある。若し前《さき》に云つた如く恭庭即宗英法眼だとすると、恭庭は同僚を寿せむがために蘭軒の作を索《もと》めたのである。

     その百五

 蘭軒の集には、此年己卯に夏の詩が二首あつて、其末に題画が一首ある。並に人名地名を載せない。次に秋の詩が六首あつて、其中に詠史が一首入つてゐる。史上の人物は和気清麿で、蘭軒は此公に慊《あきたら》ざるものがあつたやうである。「奉神忽破托神策。何知従来不巧機。」
 秋の詩の中に蘭軒が旧友西脇棠園といふものに訪はれた七律がある。詩の引には「中秋前一日雨、草堂小集、時棠園西脇翁過訪、余与翁不相見、十余年於此、故詩中及之」と云つてある。「冷雨凄風林葉鳴、笠簑相伴訪柴荊」の句がある。棠園、名は簡《かん》、通称は総右衛門、此年五十七歳であつた。十余年前の相識と云ふからは、文化初年の友であつただらう。西脇は多く聞かぬ氏族である。わたくしは五山堂詩話中に於て唯一の西脇|薪斎《しんさい》を見出した。薪斎は福島の士である。薪斎と棠園との縁故ありや否を知らない。
 中秋には余語天錫《よごてんせき》の家に詩会があつて、蘭軒はこれに※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《のぞ》んだ。其夜は月蝕があつたので、「幸将丹竈君家術、理取嫦娥病裏顔」の句がある。菅茶山にも亦「中秋有食」の詩があつた。「去歳既被雲陰厄、今年又逢此虫食」は其七古中の一解である。
 次に冬の詩が四首あるが、其中には伝記に補入すべきものを見ない。わたくしは詩巻を掩うて勤向覚書を繙《ひもと》く。そして
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